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南海電鉄小説コンテスト

たずね人

電話が震えた。
表示された名前を見て、鏑木洋介は頬をゆがめた。斜め向かいのデスクで眉をひそめる課長に苦笑いを送り、立ち上がりながら画面のボタンを指でなでる。
「ああ洋ちゃん、ひさしぶりい」
耳を離していても聞こえてくる老婆の声は、実家の隣の橋口さんのものだ。どこの国の訛かわからないが、大阪のものではない。
「元気にしとるのお。最近あんまみかけんじゃけどさあ」
声が漏れないように受話口を強く耳に押しあてると、工事の騒音のように暴力的に鼓膜を叩きつけてきた。
課長に「すみません」と口の動きで伝えると、やれやれといった顔でうなずいた。部屋中の視線に気おされるように、体をかがめながら部屋を出る。狭い廊下は声が反響するのでかえって仕事中の同僚の迷惑ではないかと思い、突きあたりまで移動して窓を開ける。そばを通る高速道路の車の音と街の喧騒が湿っぽい熱気とごちゃまぜになって電話を持つ手にまとわりついてきた。
昔はこんなに声の大きな人ではなかったのだが、ここ数年は実家に帰るたびになぜか必ず庭先に出ていて、二軒先にも聞こえるくらいの大声で話しかけられる。

──歳とって耳が遠なったら、自然と声が大きなるもんやで。
父と二人で住んでいた母光枝はそう言った。口数の少ない母はお喋りの橋口さんとは相性がよいらしく、よく互いの家でお茶を飲んだり、絵手紙教室に一緒に通ったりしていた。洋介が実家に帰ると橋口さんの陽気な声で到着を知り、いつも玄関から出て笑顔で迎えてくれるのだが、作り笑いのようなその表情が煩わしかった。
その橋口さんとは一ヵ月前に父の葬式で顔を合わせたところなのだが、それでも「ひさしぶり」という時間感覚も歳のせいなのだろうか。
「あのさあ、みっちゃんなんじゃけどさあ」
母の名前を聞いて心臓が大きく脈打った。父の葬儀のあと橋口さんに、「なんかあったら連絡しちゃるからなあ」と電話番号を聞かれていたからだ。
「どこいったんか知っとるら」
「え、えっと。どこというと……」
どこへ行ったかと訊かれても、どこかへ行くのかさえ知るはずもないのだ。同じ府内在住で一人息子だといっても同居しているわけではないし、用事がなければ電話をかけることもない。わざわざ仕事中に電話をしてきて、この老人はいったいなにを訊いているのだ。
洋介は老婆のとぼけた声に心のなかで毒づいたが、母が世話になっている相手だけに口には出せない。

「さあ、なんも聞いてませんけど。おらんのやったら散歩か買い物にでもいったんちゃいますかね」
「ほっかあ。ならええんじゃけど……」
 歯切れの悪い物言いに、いらいらする。
「朝から玄関開いとったんだらあ」
「えっ」
橋口さんの話はこういうことだった。朝の九時頃に庭へ出ると、左隣の鏑木家の玄関扉が開けっ放しになっているのが見えた。不審に思い、靴脱ぎ場に顔を突っ込んで「みっちゃあん」と呼びかけてみたが返事はない。家のなかにまで入ってみるべきかどうか迷ったが、もしもなかで倒れていたりしてはことだと思い、靴をきちんと揃えて上がると、部屋もトイレも風呂場も一個ずつ覗いてみた。しかし母の姿は見あたらなかった。そこで慌てて洋介に電話をかけたのだという。

予兆はあった。十年ほど前に洋介が家を出て以来、いつごろからか母の行動はおかしくなってきていた。
三年前の正月の朝に洋介が実家でテレビを観てくつろいでいると、母が何度もリビングと洗面所を行ったり来たりしていた。
「どないしたん」と訊ねると、
「お母さんの歯ブラシ見いひんかった?」と何度も同じところを探している。
「どっかに置き忘れたんちゃう。一回くらい磨かんでも死なへんわ」

 お茶でも飲んどきと言うつもりで冷蔵庫を開けると、目の前に歯ブラシが立て掛けてあった。ご丁寧に歯磨き粉とセットにして。
「おおいオカン、なに冷やしてんねん」
母を呼んで見せると、「やだわあ、洋ちゃんたらまたこんないたずらして」と嬉しそうに取り出して洗面所に向かい、冷たくて気持ちええわあなどと言っている。冷蔵庫の前に立ったまま、母の弾むような声に背筋がぞわっと寒くなった。
しかしまだその頃は時々おかしな言動があるくらいで、家事ができない父のために食事も作っていたし洗濯もしていた。定年後は家に引きこもって煙草を吸うか犬のハヤトの散歩に行くしかしない父とは違って、絵手紙教室に週一回出かけてもいた。
母が急に変わったのは、昨年の初夏に父が脳梗塞で倒れてからだ。リハビリでなんとか杖歩行ができるまでには回復したが、もともと母以上に口数の少なかった父は伏しがちになり、些細なことで激高するようになった。

最初は戸惑っていた母だったが、数ヵ月もすると父の言葉を聞き流すようになった。端から見ていると聞き流すというよりも聞こえていないか、全然知らない国の言葉を耳にしているかのようにも見えた。なにを言われても「はいはい」といって全然関係のないことをし続けるのだ。それだけではなく洋介がたまに実家に帰ると、あらかじめ電話を入れていたのに「あれ、なにしに来たん」などと言ったり、冷蔵庫に同じ食材が溜まっていったりするようになった。
洋介はなんともいえぬヘドロのようなものが腹に沈殿していくのを感じていたが、深くは考えないようにし、父との生活のストレスから逃れるための母なりの現実逃避だと思っていた。いや、思おうとしていた。
そして一ヵ月前に父が肺炎で急死した。父から受ける精神的負担から解放されて母も元に戻るだろう。戻るはず。戻らなければならない。通夜から告別式の間じゅうそんな考えに縋るように母を見ていた。火葬場で骨上げの箸を手に虚ろな目で立ち尽くす母の様子を目のあたりにしても、ハヤトのエサや散歩の面倒を見ているうちに気持ちがほぐれて、一ヵ月もすれば活き活きしだすだろうと考えた。しかし葬儀の翌日にハヤトが死んだ。
母はなおさら無気力になって、洋介が訪ねていっても暗い部屋でたたずんでいることが増えた。それでもシンクにはフライパンや食器が置かれているので、料理はして食事も摂っているのだろう。心配ない、心配ないと自分に言い聞かせてそれ以上の可能性から逃げていた。まるで念じさえすれば現実が変わるとでも思っているかのように。

洋介は南向きの窓から差し込む日差しに頬が火照るのを感じながら、努めて楽観的な口調で橋口さんに言った。
「電話、ありがとうございます。どうにかするんで、とりあえず家のドア閉めといてもらえませんか」
ひとまず電話を切って、たいしたことではないと思える根拠を探そうとした。しかし一度不安を感じてしまうと、もう不安を煽る材料しか浮かんでこない。
直属の上司である課長には父の忌引き明けに、独居になった母の様子がおかしいというのを少し大袈裟に話してはいた。いざというときに職場を抜ける保険のつもりだったが、こんなにも早く保険を使うことになるとは思っていなかった。
実家は南海本線の羽衣駅から出ている支線の伽羅橋駅から海手に歩いて十分くらいの住宅地である。会社からは難波駅で急行に乗れば半時間ほどで着く。
課長に事情を説明し、処理中の書類を手早くまとめて鞄に突っ込んで部屋を出ると、足早にエレベーターに向かった。扉の上の階数表示が一つずつ灯っては消えるのが、今日に限ってずいぶん遅いような気がした。

駅に着くとICカードをかざして改札を通った。便利になったものだ。洋介が幼稚園に通っていた頃はまだ改札鋏のカチカチという音が響いていて、男の子たちのあこがれの象徴でもあったのだ。
発車のベルを聞きながら和歌山市行きの急行に駆け込むと、そのままドアの近くでつり革を持った。空いた座席が二つだけあったが座る気にはなれない。
こんなに明るい時間帯に実家に帰るのは何年ぶりだろう。窓の外には懐かしい景色や見覚えのない建物が早送り映像のように流れる。洋介は右から左へ、右から左へと何度も景色を追った。
住ノ江駅を過ぎるとまもなく大和川にさしかかる。子供の頃、日曜日になれば自転車でやって来て鯉釣りを楽しんだ思い出がある。水質はよくないが景色は綺麗だ。夕焼けのなかできらめく川面の風景を見ると、魚が一匹も釣れなくても心が満たされたものだ。

先週の末に電車の窓から見た夕焼けを思い出す。その日は職場の納涼会があるビアガーデンに着いた途端に電話が鳴った。滅多にない母からの電話のコール音には、絡め取られるような粘つきがある。
「ハヤトがさあ、ぜんぜんごはん食べてくれへんねん」
一瞬、聞き間違えかと思い「え、なんて」と聞き返した。
「だからあ、ハヤトがさあ、ぜんぜんごはん食べてくれへんのよ。病気ちゃうかなあ」
「ごはんて……。ハヤトこないだ死んだやん」

さすがに心配になって、その日は納涼会を抜け出してすぐに実家に帰ることにした。電車から見た大和川の夕焼けは、もはや洋介の心を満たしてはくれなかった。
家は雨戸が閉められ、なかは真っ暗だった。電気をつけてみると母は寝室で静かに眠っている。懐中電灯を手に日が沈んで薄暗くなった裏庭に出ると、主が不在となって静まりかえった犬小屋の前に干からびた白飯の入ったエサ鉢があった。丸い光のなかに浮かび上がるエサ鉢は、歩き疲れた迷子のようにその場にうずくまっていた。

そんなことがあって間もないので、母が行方不明と聞いても、驚くよりは「やっぱり」というのが正直なところだった。いや、まだ行方不明と決まったわけではない。ただ鍵を閉め忘れて買い物に行っただけかも知れないではないか。きっとそうに違いない。
大和川を越えるとそこから羽衣までの間はタイムトンネルのように感じる。電車が進むにつれ体がぎゅうっと凝縮され、子供の大きさに戻っていくような錯覚を覚えるのだ。この川は大人になった現在と子供時代との分水嶺なのかもしれない。
羽衣には洋介が子供の頃に母が働いていた法律事務所があった。幼稚園か小学校のときに一度だけ、仕事中の母を訪ねていって驚かれたことがあったような気がするが、記憶違いかも知れない。

羽衣駅で乗り換えるために階段を上って反対側のホームに降りるとベンチが見える。もう何十年も変わっていないベンチは、懐かしさ以上のなにかを胸に呼び起こし、大切なものがそこに残っているような気にさせる。
ベンチと反対側に歩くと、ちょうど二両編成の高師浜線が発車するところだった。洋介が子供の頃は一両編成のワンマンカーだった。こういった細々とした変化に気づくたびに、なんだか自分の幼少期が少しずつ削り取られていくような気がする。
一分ほどで伽羅橋駅に着いて電車を降りた。この駅にもいつの間にか自動改札機が設置された。むかしは電車の到着時以外は駅員が奥に引っ込んでしまったので、しばらく隠れていて使用済みの切符をこっそり持ち帰りコレクションしていたものだ。
改札口を出ると、後ろに洋介の通った幼稚園が見える。懐かしくて覗いてみたい気もしたが、園庭で遊ぶ園児たちの屈託のないはしゃぎ声が聞こえると、今の自分の置かれた事態との隔絶がかえって強く感じられてしまい、足を向けられなくなった。
洋介には自分が他の人たちと違っているという漠然とした不安が常にあった。周りに分厚い壁があって、向こう側は見えるのに乗り越えることはできない。うまく説明はできないが、他人の存在を認識した幼少時からずっと抱いてきた感覚である。
小学生の頃、友達の家に突然遊びに行ったことがあった。二階に上がると先に他の友達が数人いた。誰も洋介に声をかけないし、洋介も誰になんと話しかけてよいのかわからない。三十分あまり無言のまま畳に座ったあと、そっと抜け出すように帰った。「あいつなにしにきたん」「しらん。ていさつにきたんちゃう」という囁き声が背中から胸を刺してきた。
いつのことだったか記憶はあやふやだが、どうしても園の門をくぐれなかった日があった気がする。そのときは「忘れ物をした」と言って集団登園のグループから外れて引き返した。今日と同じように暑い夏の日だった。そのあとはどうなったのだったろう。思い出せない。

幼稚園を背に、海に向かってまっすぐ歩く。海とはいっても、実態はヘドロが分厚く沈んだ工業地帯に面する運河だ。
実家に着いたが珍しく橋口さんの姿が見えない。もっとも今日は大声で話しかけられても、家から笑顔で出てくる母はいないだろう。子供の頃から何度も開けた玄関の取っ手をひねるとするりと開いた。
もしや橋口さんや洋介の心配などただの思い過ごしで、家に入ると買い物袋を台所において料理をしている母が子供の頃と変わらぬ笑顔で振り向いてくれるのでは。そんな予想とも願望ともつかない思いを胸に、わざと足音をたてて台所まで行ったが、電気の消えた薄暗い空間があるだけだった。シンクの横にはまな板の上に包丁と半分に切ったトマトが放置されている。まるでトマトに包丁を入れた瞬間、体が蒸発して消えてしまったかのようだ。ガスコンロには水を張った鍋さえ置かれている。理由は わからないが、母は料理の途中に家を出て行ったのだろう。なにをそんなに急ぐ必要があったのだろうか。
このまま家で待っておくべきかとも考えたが、なにもせず待っているのにも耐えられそうにない。靴を履いて玄関を出て、鍵をかけようとしたところでふと思い出して居間に戻った。テレビ台の棚を覗いてみる。
ない。
母はいつもここに家の鍵と、テレフォンカードとコンパスカード、それに洋介の携帯番号を書いた名刺の入った定期入れを置いていたはずだ。ICカードの乗車券が普及しても「なんや、ようわからんわ」と、プリペイドのコンパスカードしか使わなかった。
携帯電話を持つことも勧めたが、「そとで電話なんかかけへんやん」の一言で一蹴された。確かに自宅の黒電話でさえうっすらと埃が積もる家の主に、携帯電話、ましてやスマートフォンを持つように説得することは洋介にはできなかった。しかしもしスマートフォンを持たせていたら、GPSで居場所がわかったかも知れないと思うとどうにも歯痒い。
鍵を持って出たのに玄関の扉を開けっ放しにしているというのは、どれほど慌てていたのだろう。ただ母は最近、つい今しがたのことは覚えられなくても、突然昔の記憶のなかに放り込まれたようにそわそわし出すことがあった。今回もそうだとすると、本当には今すぐに慌てる事態が起こったわけでもないのかも知れない。

とにかく母が鍵を持っているとわかり、今度こそ玄関に鍵をかけて家を出る。どこに向かえばよいのか想像もつかないが、住宅街のなかを彷徨っているのなら、困りはしても危険は少ない。交通事故に遭いでもすれば警察か救急隊から連絡があるだろうから、今のところそれはない。この辺りで一番危険な場所といえば……海か。
北は浜寺大橋、南は高石大橋でこちら側の土地とつながる埋め立て地と、こちらの浜寺公園とに挟まれた海は幅が二百メートルほどの運河になっているが、埋め立て地にある臨海工業地帯を越えると大阪湾につながっているので、紛れもなく海である。運河とそこに注ぐ芦田川はヘドロにまみれ、なにかのガスがあぶくとなってボコボコと音を立てて浮かび上がっている。
洋介の頭にヘドロに埋もれた母親の姿が浮かんだ。
──まさかな……。
あり得ない事態を想像して不安になる人をたしなめるように自分を笑って、あえてゆっくりと浜寺公園に向かった。百メートルほどの下り坂を下りて公園に入ると、対岸に石油コンビナートのある工業地帯が見える。白と朱色の縞模様の煙突は絶えず煙を吐いている。
子供の頃はときどき光化学スモッグ注意報が発令されて、外で遊ぶのを禁止された。そんな大気汚染の原因となっていた工業地帯だが、最近は空気も綺麗になっただけではなく、夜中でも煌々と明かりの灯る工場群がマニアに人気で人が殺到するというから、世の中も変わったものだ。
運河に沿って腰ほどの高さの柵を左手で擦りながら歩いて行く。懸命に黒い水面に目をこらすが、時折魚が跳ねる以外はなにも変わったところはない。一時間ほどかけて浜寺大橋の近くまで歩いても、水面には障害物が沈んでいることを仄めかす不自然なゆらめきは見られなかった。

海から離れて浜寺公園のなかに入った。公園を周回する道を、来た方向とは反対に歩く。昔は松の木が群生した海岸だったという日本最古の公立公園は、今でも園内が松林で覆われている。周回道路よりも、むしろ人のいない松林に目をこらし、ときには松の樹間に入って人影を探すが、見えるのは道路上を快活に腕を振り早足で歩く老人たちやベビーカーを転がす若い女性の集団ばかりであった。
洋介は夫婦とおぼしき老人の二人組を、小走りで追いかけて呼び止めた。
「すみません。ここらで一人でうろついてる六十歳くらいのばあちゃん見ませんでしたか」
「ほんなんいっぱいおるで」
男性の方が辺りを見回した。確かに一人で散歩したり、ベンチに座って猫にエサをやったりしている老人は大勢いる。
「いや、そうなんやけど……」
「どないしたん、兄ちゃん」
女性の方がうっすらと汗のにじんだ顔を微笑ませがら訊いてくる。二人が着ている速乾性Tシャツは、胸になんとかJOGGERS CLUBとプリントされていて、片方の袖から胸にかけてが豹柄だ。ここいらのチームにしては控えめな方だろう。
「母が、今朝からおらんようになってまして」
「おらんて、行方不明ってことかいな」

女性は瞳を爛々と輝かせて一歩前に出た。
「あんた、お母ちゃんってどこの人なん」
「生まれも育ちも大阪です」
洋介の頭に橋口さんの訛った声が蘇った。あの人は大阪人ではないのだろう。
「ほんなんわかってるがな。今どこに住んではるんかってことやん」
ああ、そういう意味か。自分にはこういうところがある。相手の言葉を文字通り受け取って、とんちんかんな返事をしてしまうところが。そんな自分を恥じて極力人と話さないようにして生きてきた結果、頼りになる幼なじみと呼べる人は一人もいない。
「ああ、すんません。そっちに歩いて十分くらいの高師浜です」
家の方角を指さして女性に示す。女性はもう別の方を向いて手を振っている。
「なあなあ奥さん。この子のお母ちゃんどっか行ってもうてんて」
大声で話しかけた先には立ち話をしている女性が三人いた。年齢は母よりもう少し上のようだ。女性たちはわらわらと寄ってきて口々に喋る。
「お母ちゃんてどんな人なん」
「なに着てはんの」
「写真もってへんの、写真」
そう言われるまで洋介は母の写真を持ってこなかったことに気づいていなかった。やはり耳が遠いのだろうか、皆おしなべて声が大きい。

「すんません、写真なくて。今日着てるもんはわからんのですけど、炊事中に出て行ったみたいやから、部屋着みたいなもんやと思います。身長がこんくらいで」
洋介は自分の頸の辺りで掌を揺らした。自分の手を見てはじめて、母が随分小さくなってしまったと思った。現実には自分が大きくなったのだが、感覚的には幼少期から成長した実感がない。大和川を越えてこちら側に来るときには、いつも洋介は子供であり母は母だった。だけど母はいつの間にか一人の老婆になってしまっていたのかも知れない。
「名前は。名前なんちゅうの」
 白髪の一部を赤く染めた細身の女性が、はにかむように訊いてくる。
「鏑木光枝です」
 隣の眼鏡をかけた女性が、顔を輝かせた。
「まっ。みっちゃんやないの」
 口元に手をかざしてJOGGERS CLUBの女性の肩を叩く。
「ほら、真田先生んとこの」
「ああ、あんたがよう言うてた奥さん。おもろい人で絵心もあるっていう」
 どうやら眼鏡の女性は絵手紙教室で母を知っているらしい。一見、藁のように干からびた老人たちに見えたが、この上なく心強く感じて洋介は申しわけなく思った。
「最近見かけんと思ってたけど。ほんならこの人がみっちゃんの言うてたイケメンの息子さん? ほんまやわあ」
 なあ、と猫のエサを手に持った女性に同意を求める。
「ほんまほんま、イケメンやわあ」

JOGGERSの男性そっちのけで、女性四人で盛り上がっている。こういう光景を見ると、女性は何歳になっても女なんだと思わされる。はたして母もこんな風に女の楽しみを知っていたのだろうか。洋介には想像できなかったが、母が絵手紙教室で面白いという評判を得ていて、しかも洋介のことを噂していたのだと聞いてちょっとした衝撃を受けた。思えば母の家庭以外での顔はほとんど知らない。はからずも母の秘め事を耳にしてしまったようで、もう二度と母に会えないのではないかという予感がヘドロに浮かぶ泡のように洋介の心に湧き上がってきた。
「おまえ、知ってんやったら誰かに訊いたれや」
圧倒される洋介に手を差し延べるように、男性が連れ合いらしき女性に言ってくれた。
「そうやな。お兄さんちょっと待っとってや」
JOGGERSの女性はウエストポーチからスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで画面を撫でて耳にあてた。
「ああ、うち、うち。うん、そう。あのさあちょっと訊きたいんやけど、今日ってみっちゃんめえへんかった? うん、そう。ああ、そう。うん、たのむわ」
スマホを耳から離し右手に持ち替える。
「今日は見てへんけど、教室の仲間に電話して訊いてみてくれるって。お兄ちゃんここでしばらく待っときや」
視線で洋介を絡みとるように女性が言った。
「どうせ他にあてないんやろ。ババアたちのネット|バー《・・》クもたいしたもんやで」
キャハハと女性たちが大きな口を開けて笑った。洋介はどう反応すべきかわからず、曖昧な笑顔を浮かべた。
こういう、ノリを強要するような会話を洋介は好かない。しかし今はともかく母の情報が最優先である。苦手でもなんでも機嫌を損ねないようにしなければならない。
「うちらみんな元気やろ。何歳に見える?」
これなら正解はわかる。

「うーん。六十代の前半くらいですかね」
女性四人から歓声が上がった。顔の皺の深さはどう見ても七十を越えている。赤毛の女性が顔の横で手をひらひらさせながら体をよじる。
「やだわあ、イケメンの上に口までうまくてえ。いっぱい女の子泣かしてきたんやろ」
──こっちが泣きたいくらいやわ……
ひきつる頬を無理に抑えて笑顔を作る。不自然さに気づかれていないかと不安がよぎるが、女性たちだけで盛り上がっていて、洋介のことはモニターの映像程度にしか思っていないようだ。
JOGGERSの男性は早々に見切りをつけてスマホをいじっているから、女性たちが集まればいつもこの調子なのだろう。
「あんなあ、元気の秘訣はおしゃべりやで。肺活量も鍛えられるし、笑うたら免疫力もアップするんやで」
眼鏡の女性が胸を張る。
「そうそう。おしゃべりだけやったら、うちら十代やもんな。そやろ?」
ネコ缶の女性が嬉しそうに洋介の二の腕に手を添える。意外にも湿り気を帯びた冷たい掌の感覚に体をこわばらせた。

母の行方を探しにきただけのはずが、どうにもおかしなことになってきた。「そやろ」というのは返事を求められているのか。洋介にはわからなかったが、四人の目からはなにか言わなければならないプレッシャーを感じる。
「なるほど。ガールズトークならぬ、|バー《・・》ルズトークってとこですかね」
洋介がぽつりと言った瞬間、会話が消えた。一帯に蝉の鳴き声が響いている。一人だけ時間の流れから足を踏み外してしまったようだ。のどが詰まる。
「いややわあ、お兄ちゃん」
女性が二の腕に添えた手でペチンと洋介の肩を叩いたのが合図とばかりに、全員がどっと笑った。時間が動き始める。のどに詰まっていたものを息とともに吐き出した。
 洋介の返答は、はずれだったのかも知れない。だがそういった間違いやずれも、笑いの材料として受け入れてくれる。この町にはそういうところがある。そうでなかったら洋介はもっと歪んでしまっていたかも知れない。
ちょうどそのとき句点を打つように電話が鳴った。
「うん、そう。ほんま。わかった、おおきに」
JOGGERSの女性は電話を切ると洋介の方に向き直った。
「羽衣駅で見かけた人がおるって。えらい急いどったらしいで」
駅とは盲点だった。確かにコンパスカードを持っているのだから電車に乗ることは考えられるのだが、それはとても目的を持った行動のように感じる。今の母がそんな合目的な行動をとるとは想像しづらかった。
今の場所から羽衣駅までなら直接歩いて行った方が早い。洋介は老人たちに礼を言い、すぐに羽衣駅に向かった。幸いいくつかある公園の出入り口のうち一つがすぐ近くで、そこから駅までは一直線だ。

駅に着くと階段を上って改札口を入る。そこで足を止めた。右に行くのか左に行くのか。右は難波方面と高師浜方面、左は和歌山市方面のホームがある。考えてもわからないことなので、とりあえず右側の階段を降りた。目の前に高師浜線のホームが見えるが誰もいない。折り返して難波方面のホームを走る。時折対岸にも目を遣りながらホームの端まで小走りに進んだが、母はおろか老人の姿は一人も見かけなかった。念のために引き返し、今度はゆっくりと歩きながら気配を探すが、やはり母の姿はない。難波行きホームの端に懐かしいベンチが見える。洋介を子供時代の思い出に誘うような、古ぼけた色調の木のベンチだ。
洋介はベンチの前で歩を緩めたが、母のとぼとぼと歩く姿を思い浮かべて階段を上った。反対のホームから見てはいたが、念のため和歌山市方面のホームにも降りてみる。端から端まで走っても、やはり母の姿はない。考えてみたら駅にいたということは電車に乗ってどこかに行くのか、どこかからやってきたかのどちらかだろう。だとすればいつまでも駅にいるとは考えにくい。

母が電車に乗って羽衣駅まで来たとすると、考えられるのは昔勤めていた法律事務所だ。昔の記憶が蘇って、遅刻すると思い慌てて出勤したとしたら合点はいく。事務所の正確な位置は記憶にはないが、おおよその場所ならわかる気もする。洋介は走って改札口を出て線路の東側に降りた。道行く人を見逃さないように、目を配りながら小走りで路地に入る。遠い昔に来たことがあるような気もする細い道を、塗り絵を塗りつぶすように歩きながら、道ばたの家々に注意をこらす。
確か母の職場は、普通の家になんとか法律事務所という白い小さな看板が出されていただけのように思う。しかし母の姿はおろか看板も見つけられない。個人の小さな事務所だったら、経営者の弁護士が引退すれば事務所も閉鎖するだろう。母が働いていた頃からは三十年近く経っている。もうここには母の思い出になるようなものはなにもないのかも知れない。それでも諦めきれず、範囲を広げながら同じ道を何度も探した。
いつのまにか日差しが和らいできた。汗に濡れたシャツが体に貼りついている。ボタンを一つはずし、胸元を指でつまんではためかせながら、シャツのなかに空気を送り込んだ。
ここは目的地ではなく、羽衣駅からさらに電車に乗って遠方に行ってしまったのではないだろうか。母が電車に乗って行くところというと、どこがあるのだろう。洋介の家か会社だろうか。しかしなんとなく大和川より向こうに母は行かないような気がしていた。洋介のなかではいつまでも母はこちら側の人なのだ。

これ以上同じ場所をうろついていても埒があかないので、もう一度駅へ戻ることにした。階段を上り、改札口を通り、階段を降りる。戻ってきたはいいが、どこへ行こう。ちょうどホームに入ってきた高師浜線に乗って家に向かうか。何時間も歩き回って、母も事務所も見つけられず、ただ無駄に時間を浪費したという事実が洋介の頭にのしかかった。時間が経つにつれ、母の存在が遠くなっていく気がする。今日のうちに見つけられなければどうなるのだろう。毎日会社を休んで探すことはできない。もし見つかったら早いうちに施設に入れることを考えなければならない。母は想い出のある家を離れるのを嫌がるかも知れないが、また同じことがあっては堪らない。
ふと誰かに呼び止められた気がして振り返ったが、人の影はなかった。そこには古ぼけたベンチが佇んでいるだけだった。改装して新しくなった駅舎や自動改札機、二両編成に増えた高師浜線、なにもかもが変わっていく駅のなかで、このベンチだけは変わらずいつまでも同じ姿を留めている。
風に背を押されるように、洋介はベンチに座った。脚で肘を支え、両手で顔を包む。目を閉じると暗闇のなかに蠢く影が見える。
いつのことだったか、同じような体験を洋介はしたことがある。このベンチに座って膝にうつ伏して、ヘドロに埋もれてしまって見る光景はこんなだろうかと想像し、ひどく怖くなったことが確かにある。

洋介は自分の体が縮んでいくのを感じた。心が時間をさかのぼり、幼い日々へ帰って行く。それまで意識したことのなかった幼稚園の門。ここに外と内を隔てる境界があるということ。それに気づいてしまった途端、洋介はなかに入ることができなくなった。皆と同じ世界にいられない。どうせ拒絶されるならはじめから入らない方がよい。友達の家に行かなければスパイよばわりの陰口を聞くこともない。そう思い、「忘れ物をした」と誰にともなく嘘を言って、返事も待たずに駆け出した。
一直線に家に帰った。自分が落ち着けるのは、無条件でただそこにいてよいのはこの家だけだった。玄関の取っ手をひねった。鍵がかかっている。扉の横の呼び鈴を押した。蝉の声が大きくなった。もう一度押した。いくら待っても誰も出てこない。もう自分には帰る場所がない。そう思った瞬間にとてつもない恐怖に襲われた。
──そうだお母さんのところに行こう。
洋介は駈け出した。伽羅橋駅に向かって全速力で走った。息が苦しかった。国道二十六号線と交差する高架を高師浜駅に向かって走る電車が見えた。ちょうど今頃、改札口に駅員が出ているはずだ。足を緩めて駅まで歩いた。駅員の姿は見えない。改札口を走って抜けると階段を駆け上がった。ホームまで上がらずに階段に立って隠れる。電車が入ってドアが開くと、降りてくる人と交差するように素早く乗り込んだ。ドアが閉じて電車が動き出す。どうやら見つかってつまみ出されることは避けられたようだ。

羽衣駅に着いてドアが開くと、一番に飛び出して階段を上った。この先にお母さんの職場がある。そこにたどり着きさえすればどうにかなる。そう信じて階段を駆け上がったところで足を止めた。改札口に駅員が立っている。壁際に身を翻して乗客たちが過ぎ去るのを待った。姿を見られないようにかくれんぼうをしながら、背中で改札鋏の音を聞いていた。音がやんだので壁越しにそうっと覗いてみると、駅員は改札口の横の詰め所に座っていた。これでは外に出られない。
はじめて洋介は自分の行動の愚かさに気づいた。幼稚園児が一人で無賃乗車して無事に出られるはずがなかったのだ。急に辺りの空気が薄くなった。息を吸おうとしても胸が膨らまない。これは光化学スモッグの毒なのかもしれない。いろいろなことが混乱して、ほとんど転げ落ちるように階段を降りると、洋介は座る場所を探した。近くにベンチがあった。そこに腰を下ろし、両手で顔を覆った。肘を脚に置き目を閉じてうずくまると、暗闇のなかに蠢くヘドロのような影が見える。どうしようもなく恐ろしく心細くなり、腹の奥から大きな塊が上がってくるのを感じた。目の奥が熱くなる。のどが詰まって息を吸おうとしても勝手にしゃくり上げてしまう。どうしよう、どうしよう、どうしよう……

──洋ちゃん。

顔を上げると母がいた。
「どこ行っとったんよ。探したんやで」
息を切らした母は汗を垂らしながら安堵とも恐怖ともとれない複雑な顔をしている。両手を差し出し洋介の脇を抱きかかえた。自分の足で立ち上がった洋介の目から涙があふれ出す。母の顔がよく見えない。
──探しとったんはこっちの方や。
そう言おうとしたが、声にはならなかった。
「お母さん」

洋介は泣きじゃくりながら、あのとき母がしてくれたように胸のなかに母の頭を抱いた。母の頭は汗でぐっしょりと濡れていた。
そうだった。あの日も職場に到着した母は洋介が登園していないという伝言を受けとり、すべてを放り出して帰宅した。開いたままの門を見て洋介が一度帰ってきたことを察し、辺りを走り回って探したのだ。運河の水面も浜寺公園のなかも。そして最後に羽衣駅の階段を降りたところで、ベンチにうずくまり肩を震わせている洋介の姿を発見したのだった。
洋介は母の手を取り階段を上った。今はもう駅員の目を気にすることもなく、ICカードをあてて母のコンパスカードを入れて改札口を出た。
階段を西側に降りると空が赤く染まっていた。その場でしゃがみ、母を負ぶって浜寺公園を通り家に向かった。あの日の母と同じように。
「いややわ洋ちゃん。恥ずかしいやん」
そう言いながら母は洋介の肩に回した手に力を込めた。
母の体温を背中に感じ、夕焼けに映える松林のなかを歩いていると、もう少しだけこの母とともに生きていけそうな気がしてきた。

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