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南海電鉄小説コンテスト

31文字の日常

うちの塾に少し毛色の変わった子がいる。

女子なのに国語より算数が強くて、女子なのに無駄口を叩かず、他の子ともつるまない。女子なのにいつもジーパンで、女子なのに俺より背が高くて…って、最後のは完全に俺のひがみだけど、とにかく教室の中でも浮いた存在であるのは事実だ。

授業毎に行われる小テストで100点を量産するのはもちろん、月に一度の公開テストでも偏差値65以上を常にキープしているツワモノで、ついたあだ名は最終兵器。
教室の全員が解けない問題が出てくると、「しゃあないなぁ、ほな、村上さんはどうや」、と先生が振って、その時だけぼそぼそと小さな声で答えるからだ。
それが正解というのだから、まったく…もったいぶらないで最初から手を挙げて答えりゃいいのに。

彼女はいつも窓側の前から二列目の席に座って、一人で文庫本を読んでいる。
そういえば何度か席替えがあったのに彼女はいつもその席だ。目の悪い奴とかが最前列で固定されるのは分かるけど、なんで二列目?

まぁ、そんなことはどうだっていい。目下のところ知りたいのは、そんな彼女と過ごす間を埋める方法だ。

事の発端は塾の授業の終わる時間がぐんと遅くなったことにある。

俺たちが通っているのは中百舌鳥の駅前にある中学受験専門の塾で、5年に進級してからは勉強量も授業時間も一気に増えた。
「夜遅くて危ないから、帰る方向が一緒の奴はまとまって帰れよ」、と先生はお気楽に言ってくれるけど、南海高野線下りチームは俺と彼女だけ。クラスでも成績は中の上、騒がしい方に分類される俺と彼女の二人でどうしろというのか。

俺は萩原天神まで、彼女は白鷺まで帰るから、ホームで待つ時間も含めると二人で過ごすのは約10分間。たった10分だって?よく言うよ。体感時間は3倍以上。一切話が盛り上がらない気まずさといったらギネス級だ。それを、火、木、土の週に3回も。マジで勘弁してほしい。

これでも、俺としてはいろいろ話しかけているのだ。でも、その努力をあざ笑うかのように会話はブツブツ途切れる。

「えーっと、学校って最近は何が流行ってる?」
「なんだろ…」
「女子だと恋ダンスとか、みんなやってるんちゃう」
「あぁ、そうかも」

…って、それだけかよ?!

いや、いっそのこと彼女の存在なんて忘れて隣の車両に乗り漫画でも読もうかとも思うけど、まだ5年も始まったばかりだから、受験まで最低1年半は顔を突き合わせる計算になる。親友になりたいわけじゃけど、疎遠になりすぎるのもなぁ。あぁ、とにかく何かしゃべってくれ。
揺れる車内を見回し、何とか彼女との会話の糸口を探す。するとこの沿線にある私立高校の宣伝ポスターが窓の脇に貼ってあるのに気付いた。

「そういえばどこの中学受けるん?やっぱりN中とか?」

俺はこの辺りで一番難易度の高い共学校の名を挙げた。だが、彼女は首を横に振る。

「それならO学園?…って、あれは男子校か」

俺のボケにも口を挟んでくれないので、一人で突っ込む。あぁ、虚しい。
こうなったら意地でも聞き出してやろうと問い続けたら、口を割ってくれた。

「私はS女子を受けるつもり」
「ふうん、S女子か」

S女子も伝統ある難関校でN中並みの難易度を誇るけど、俺に女子校ネタで話を膨らませることなんてできるはずが無い。あぁ、マズい。また会話が途切れてしまう。

「ええっと、なんでS女子なん?女子校がええの?」
「うん、まぁ、この電車で通いやすいし」

…ははは、やっぱり、無理だったよ。

仕方なく、俺は自分の話に切り替えた。

「俺はN中かな。でも落ちたら公立でもええねん」
「そうなん?」
「うちのねえちゃんも受験したけど、結局公立行ってん。でも高校はM高受かったし、俺もそんなでええかなって」

中学受験は不思議な制度だ。義務教育だから落ちても公立中へ行ける。
でもやるからには一生懸命やれよ、と言われる。
俺はねえちゃんのリベンジで挑戦することになったけど、なんで勉強するんだろう、とはしばしば思う。こんな立派なセーフティーネットがある状態で、必死に頑張れる訳が無いじゃないか。
毎月の公開テストの結果は廊下へ貼り出されるから出来た方が格好いいが、奮起する気分にまではなれない。

しかし、彼女は軽く目を細めていた。

「…私は絶対S女子に行きたいけどなぁ」

窓の外を見ながらつぶやいた彼女はなんだか遠い目をしたように見えた。
不思議だった。まだ5年も始まったばかりの5月に志望校がしっかり固まっている子は珍しい。俺だって、N中がいい理由なんて、一番難しいところをとりあえず狙っておこう、というくらい。
なのに、どうして絶対にS女子?

理由を聞き出す前に、電車が白鷺駅に到着した。「じゃあね」と蚊の泣くような小さな声で言うと、彼女は下りてしまった。

それから数日後の土曜日、いつものように高野線上りチームと改札口で別れた直後の事だった。

定期券をかばんに戻そうとした彼女のリュックサックの右脇のポケットから臙脂色の小さな巾着が落ちた。拾ってみると、妙に堅い手触りだった。小さな紙のようなものが何枚も入っているのは分かったけど、トランプや単語帳にしてはごつい感じ。

「何入ってんの?」
「べつに…」
「見てもいい?」

渋られたが、再度頼んだら了承してくれた。志望校を聞いた時もそうだけど、どうも断れないタイプらしい。
巾着の中から出てきたのはひらがなの書かれた、たくさんの小さな札。これは確か…

「百人一首?なんでこんなん持ってるん?」
「学校でかるた部やから、覚えるのに」
「かるた部って…あれ?」

赤い袴姿の女の子が真ん中に描かれた映画のポスターを俺は指さした。2番線に止まっていた泉北高速の車両の中にちょうど都合よく吊られていたのだ。

主役の女の子が可愛いからか、巷では人気の映画らしい。だけど俺は全く興味が無い。だってかるただなんて、一体いつの時代の遊びだよ。

俺は札をしげしげと眺めた。よほどやりこんでいるのか、どの札も手垢で少々黄ばんでいる。

「これは面白いもんなん?」
「うん。好きやねん」

彼女は照れながらも、珍しくはっきりした口調で言った。
好き…ねぇ。
まぁ何を好きになるかは自由だけど、この札のどこに心ときめく要因があるのか見当がつかない。

「この札で何を覚えるわけ?歌を全部?」
「それはもちろんやけど、あとは…」

彼女は口で説明しきれないと思ったのか、実演してくれた。札をめくりながら、「す、こぬ、ちぎりき、たち、いまこ…」と謎の言葉を並べていく。

「これが決まり字やから、札を見てすぐに決まり字が頭に出てくるように、覚えててん」
「…」
「ここに書かれている字を文字じゃなくて、図形として覚えた方が早よ取れるんやって。せやからこの札で覚えなあかんねん」

珍しく長広舌をふるう彼女に、俺は「へぇ…」とだけ言った。
いや、他に何とコメントしていいものか。彼女の口から出てきた言葉、半分以上意味が分からなかったぞ。
いや、ただ一つだけ分かったことがある。アイドルやドラマで盛り上がっている女子たちとは、そりゃ仲良くなれなくて当然かもしれない。
俺は苦笑交じりに嘆息した。

「なんや、さすが村上さんっていうか…俺には無理やなぁ」

「でも、これなんか、さっきの授業でやった阿倍仲麻呂の歌やで」

彼女は『みかさのやまにいてしつきかも』と書かれた札をひょいと引き抜いてみせた。

「教科書にも載ってたやろ」
「そういえばあったな」

数時間前に社会の先生が言っていた。「阿部ちゃうで、阿倍。あばいなかまろ、って覚えとけ。ちなみに来週やるけど、陰陽師で有名な安倍晴明と今の首相は安倍、やからな。こっちは、やすばい。間違えるなよ」
黒板中にいろんな『あべ』の字が並んで、頭が痛くなったっけ。
彼女はまた他の札をめくった。

「これは天智天皇やし」
「テンチ?誰やったっけ?」
「ほら、大化の改新やった人。中大兄皇子」
「あぁそうか。蒸し殺された大化の改新」
「そうそう。649年」

顔を見合わせ、互いに笑みがこぼれた。
あ。なんか今、初めて彼女との会話が噛み合った気がする。
これって、なんだろ。今までダメダメだっただけに、すっげぇ嬉しい。
そうか、かるたか…
想像もしなかった村上さん攻略法が浮かんできて、俺の頭は急速回転をし始めた。でも、かるたなんて、どうやって使えばいいんだ?

「いやぁ。今日の授業は最高におもろかったなぁ」

翌週の土曜日、中百舌鳥駅でホームへの階段を下りながら、俺は笑いが止まらなかった。彼女はその後ろから恨めし気な顔をしてついてくる。

社会の授業中、先生が紫式部の名を口にした瞬間に、はい、と手を挙げて和歌を暗唱してみせたのだ。

「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな」

みんなはあっけにとられて口をぽかんと開けるし、先生は「お前、そんなん覚えてるんか」と目を丸くするし、とにかくその場にいた全員の度肝を抜くことに成功した。そして、「次の清少納言は村上さんが言います」

無理無理無理無理無理無理無理

こんな時でも声を上げないのが彼女らしい。無茶振りをした俺に向かって、首を強く横に振り、口パクで拒否を伝えてきたが、でも俺は知っている。彼女は断れないタイプなのだ。
結局、先生からも改めて促されたから、「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」、と普段よりずっと小さな声で言ってくれた。

「あんなん、あかんて。恥ずかしいやん。なんの事だか誰も意味分かってへんし」

電車に乗ってからも彼女はまだ口を尖らせていたけど、俺は大満足だった。あのおとなしくて賢い村上さんをテンバらせてやったのだ。こんなに楽しい事は無い。

「こんだけ映画やってるんやから、みんなも少しくらい分かると思ったのになぁ」
「自分も先週まで何にも知らんかったくせによく言うわ」
「ふふん、あれだけねえちゃんに教えてもらってん。高校で今勉強してるねんて」

俺は、よっしゃあ、と気合を入れて大きな伸びをした。

「ほな、来週の社会の時間もやるで」
「やんない。絶対やんない」
「次は鎌倉時代やな。誰やろ」
「絶対言わへん」
「ええやん。やろうな。次こそきっと、ウケるって」
「絶対ウケへんし、恥ずかしいだけやし、やらへんし」
「とりあえず、誰を言ったらいいかだけ教えといて」
「絶対言わへんわ!!」

絶対ばかりを連呼し、最後にはらしくない大きな声で叫びながら、彼女は白鷺駅で降りて行った。
なんだ、あんな声を出せるなんて、教室ではちょっと浮いてる彼女も普通の女の子じゃないか。
ホームから改札へ、階段を上っていく後ろ姿を見送りながら、俺はにやにやとほくそ笑んだ。さぁ、来週が楽しみだ。


でも次の土曜日、彼女は塾に来なかった。

土曜日の次の授業は翌週の火曜日にある。
彼女は火曜日の授業には姿を見せた。授業中から俺を避けていたのは分かったけど、帰り道は絶対に二人きりになるわけで。

「先週、なんで来ぇへんかったん?」

ホームに降りてから、俺は仏頂面で問い詰めた。
俺にいじられるのが嫌で休んだなら、それは気に入らない。彼女が好きだっていうから俺だって頑張って百人一首を覚えたのに、裏切られた気分だった。

先生からは「ほれ、源実朝やで。例の奴は言わへんのか?」と逆に振られたけど、「知らんわ」とだんまりを決め込んだ。分かってくれる人がいないなら言っても無駄だし、それに俺が覚えてきたのは後鳥羽上皇の方だし。

電車を待つべくホームに並んで立つ。平日の夜だから混雑している急行電車が俺たちの目前を勢いよく通り過ぎていった。
彼女は俺の機嫌が悪いのに臆してしまったのか、しゅんとうなだれている。気まずい、というより冷え切った空気が辺り一面を覆い尽くす。
急行電車が通り過ぎて静かさが戻ってきた後、彼女はようやく口を開いた。

「…病院に行ってて」
「土曜の夜に病院?」

俺は鼻でせせら笑った。土曜日の午後なんて、どこの病院だって休んでいる。見え透いた嘘だと思った。
でも、彼女はこくんと頷いて言った。

「耳がよく聞こえへんくて」

え?
ずる休みの口実で使うには深刻過ぎる内容だったから、俺は目を見開き、改めて傍らの彼女を見つめ直した。その俯きがちな表情からはとても嘘をついているとは思えなかったし、そもそも、彼女は冗談を口にするような子ではなかった。

「元々な、左耳は全然聞こえへんねん。一側性難聴ていうんやけど」
「そうなん?」

耳が聞こえない。

彼女の言葉に、何故だか膝が震えた。耳なんて聞こえるのが当たり前だった。こんな身近なところに聞こえない人がいることを俺は想像したことも無い。

「片側だけ聞こえへんなんてことあるん?」
「反対側の耳が聞こえているから、周りの人は気付かへんけど、意外と多いみたいやで。そりゃ教室で座る席を左端にしてもらうくらいの配慮は必要やけど、基本的には暮らすのに不自由が無くて、今まで何も気にしてへんかったんやわ。どうせ治しようもないし」
「治されへんのや」
「うん、中耳炎と突発性難聴以外の難聴はどうしようもないんやって」

彼女はあっさり言うが、俺には信じられなかった。耳が聞こえないなんていう分かりやすい症状の一つも治せないなんて…現代医療は進歩しているんじゃないのかよ。

「それが、5年になってから、右までおかしくなってん。急に悪くなるなんておかしいし、この調子でどこまで悪くなるかも怖いから、先週、大学病院で左耳も含めて詳しくみてもらったんやけど」

彼女は小さく肩をすくめた。

「CT撮ったりいろいろやって。ほんで、眠らなあかん検査のところでなかなか眠られへんかったから予想以上に時間がかかってしもて」

それで塾へ行くのが間に合わなかったらしい。だが今はもう、そんなことどうでもいい。

俺は震える声で彼女の言葉を遮った。

「ちょっと待てや。耳なんて…あほやな、今こうやってしっかり聞こえてるやん。何処が悪いねん」

俺はひきつった笑みを浮かべた。できることならこのまま笑い飛ばしてやりたかった。でも、それは許されなかった。

「うん。この距離で1対1やったら大体、平気やねん。先生の話も声が大きいから聞こえてる。でも遠くから呼びかけられたり、休み時間みたいに大勢があちこちで喋っている中やと、聞こえにくい時がある」
「…」
「あんまり自覚は無いんやけどな。でも学校でも隣の席の子にも『無視せんといてよ』って言われたことあるし、やっぱり聞こえてへんみたい」

だから、最近はみんな、用事があると指で突っついてくれるねんで。
彼女は笑って誤魔化したが、俺はもちろん一緒になんて笑えない。
耳が聞こえにくいなんて…駄目だ。まだ信じられない。

ホームに千代田行きの普通電車の到着を告げるアナウンスがあった。
それじゃあ、彼女にはこれも聞こえづらいのだろうか。電車の入ってくる音は?ドアの開く音は?あぁもう。俺にはばっちり聞こえているんだから、どういう状況なのかさっぱり分かんねぇよ。

到着した電車に乗った。電車の中もいろんな音で溢れている。車輪が回る音、車両がきしむ音、それに周りの誰かがしゃべっている声。
これらが全て無くなったら、俺はどうなるんだろう。

次の到着駅を知らせるアナウンスが分からなかったら、慣れ親しんだ高野線ならともかく、例えば南海本線だったらちゃんと目的の駅で降りられるんだろうか。人身事故で遅延している連絡はどうやって受け取る?踏切での警報音が聞こえなかったら…

「でも大丈夫やで。最近の補聴器は性能もいいらしいし」

俺があまりに衝撃を受けているものだから気を遣ったのか、彼女は妙に明るい声を上げた。

「雑音も少ないから、聞こえやすいんやって」
「補聴器をつけるん?」
「今の聴力を考えると、それもありかなってお母さんが。トランシーバーみたいで格好いいやろ」

彼女は笑っていた。いや笑うしかなかったのかもしれない。
俺が気の利いたことを何一つ言えないまま、彼女は白鷺駅で下りて行った。俺はその小さな後姿が人並みの中に消えていくのを電車の中から茫然と見送った。

木曜日。彼女は窓際の前から二列目の席に座り、一人で弁当を食べ、算数の小テストは100点で、先生に「じゃあ村上さん」、と指名された時だけぼそぼそと答える。それはいつもの授業風景だった。

俺なんて、「今日は元気無いな、どうしたんや」、って先生に心配されたくらいだってのに、なんなのだ、その落ち着きぶりは。

「まぁ、そういう日もあるやんな。明後日は元気で来いよ」

改札口まで見送ってくれた先生が俺の肩をポンと叩いてくれたが、締め付けられるような胸苦しさが改善されるはずも無く。
沈んだ気分でホームへの階段を下りる中、彼女のリュックサックのポケットへ無造作に突っ込まれていた臙脂色の巾着がふと目に入った。その瞬間、言いようのない怒りが胸の奥から突然噴き出した。

「なんでまだかるたなんて持ってるねん」
「え?」

不意を突かれたからかもしれないが、彼女はきょとんとして聞き返してきた。俺は泣き出したいような気持に襲われながら、声を張り上げた。

「せやから、なんでそんなにかるたやねん。かるたなんて耳が悪かったら無理やんか。それなのに、なんで…」

悔しいんだ。
札を持ち歩くほどかるたが好きで、こんなに一生懸命覚えているのに、どうしてよりにもよって耳が悪くなるんだよ。聞こえなかったら、かるたなんて取れないじゃないか。

俺の剣幕に驚いたのか彼女は大きく目を見開いていたが、やがてゆっくりと相好を崩した。

「好きやから」
「え?」
「かるたが好きやねん。4年の時にじゃんけんで負けて仕方なく入ったかるた部やったけど、やってみたらむっちゃ面白かった。6年生相手でも負けへんようにいっぱい練習して、札覚えて。秒殺で取れた時とか、ほんまに楽しいねんで」
「…」
「これからもずっとやりたい。でも映画人気のおかげで地元のかるた会は定員オーバーやし、これからも続けるにはかるた部のある中学校に入らなあかんくて」
「あ。もしかして、S女子は…」
「うん。かるた部がある」

彼女はにっこり笑った。

「偏差値高いしな、難しいのは分かっているけど、入りたいねん」

いや、彼女の学力だったらS女子は十分狙えるだろう。
彼女の成績を知っているから言う訳じゃない。毎回の小テストで100点を取ることがどれだけ難しい事か。同じ勉強をしているからこそ、俺たちは彼女の凄さを誰よりも理解している。
ちょっと毛色が違おうと、本当は、彼女はクラスの中で一番尊敬される存在なのだ。
それでも、合格できるかは単純に学力だけの問題では無くて…

「せやけど、もしこのまま耳がもっと悪くなったら…」

言いかけてやめた。それはあまりに辛い結末だ。でも小学生や中学生くらいから急に原因不明の聴力低下が起きて、失聴、つまり何も聞こえなくなる人もいるらしい。
ねえちゃんのスマホで調べたらそう書いてあった。

この先、失聴するようなことになれば、かるたどころか私立中学も通えない。何のために勉強したのか、全て無駄になるじゃないか。

電車が到着した。座れるほどでは無いが、ひどい混み具合でもない。次の駅ですぐに降りるから、ドアの近くに立つ。
その時ふと気づいた。彼女がいつも俺の左側に立っていることに。そうか、これまでもずっと、聞きやすい位置を考えながら過ごしていたのか。

窓の外の灯りが、後方へゆっくりと流れていく。中百舌鳥と白鷺の距離は近いから、速度も上がらない。踏切からは後半、妙に間延びした低い音が聞こえて来る。

「大丈夫やで。まだ聞こえているし」

俺の傍らで、まるで自分に言い聞かせるように、彼女は静かな口調で言った。

「かるたを読み上げる時は周りが静かやから、ちゃんと聞こえる。聞こえで不利になる分は暗記でカバーしたらええだけやし」
「…」
「それに、聞こえなくなるかもしれへんなら、むしろ悔いが残らないように、今のうちにしっかりやっておかなあかんやろ」

気負っているわけでもなく、淡々と。彼女はただ事実をありのままに述べているようだった。
耳の聞こえが悪いという深刻な状況の中でも、逃げたりせずに真っ直ぐ、今と向き合っている。
強い子だ、と思った。
公立中学でもいいとか、いい加減な気持ちでいる自分が恥ずかしくなった。
電車が白鷺駅に着いた。彼女は、「ほな、また明後日な」、と爽やかな笑顔で電車から降りていった。

次の帰り道、俺たちはしばらく無言だった。久しぶりの気まずい沈黙?いや、違う。言いたいことが多すぎて何処から話したらいいか考えているだけだ。

駅のアナウンスだけが頭上を流れていく。2番線に和泉中央行きが到着します、1番線を急行電車が通過します。
二人で並んで立っている目の前を急行電車が勢いよく通り過ぎていった。その風圧に紛れて、俺は彼女のリュックサックの右ポケットに手を伸ばした。そこに何があるかはよく知っている。

「え、何?」
「俺もかるたやったるわ」
「へ?」
「聞こえへんかったんか。一緒にかるたやったるって言ってん」
「それは聞こえたんやけど…いきなりどうしたん?かるたなんて、全然覚えてへんやろ」

彼女は、それこそ鳩が豆鉄砲でも喰らったように、目を丸くしている。俺は不必要なほどに口を尖らせ、頬を膨らました。

「覚えてへんことないわ。紫式部と後鳥羽上皇と阿倍仲麻呂なら言えるし」
「残り97首あるで」

彼女の言葉を無視し、俺は巾着から取り札を数枚取り出した。どの札にも目を引く特徴が特に無く、似たり寄ったりのひらがなが並んでいる。
俺は唇の端をひきつらせた。

「ふふん、これくらいなんでもないやん。すぐに覚えたるわ」
「ほんまに?」
「当り前やん。ほんで、どれから覚えたらええんや」
「覚えやすいのは、これかなぁ。菅原道真の歌やけど」

語尾が『まにまに』でかわいいやろ、と彼女は言う。

「もみちのにしきかみのまにまに?」
「濁音のてんてんは札に書いてないから。『このたびはぬさもとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに』」

彼女の後について俺も復唱する。まにまに、まにまに、と。

「ざっくり言うと、神様、忘れ物してごめんな、綺麗な紅葉で勘弁して、っていう意味」

彼女の説明に、俺は思わずふき出した。

「なんやねん、それ。道真って、天神さんやろ。うちの駅の名前にもなってるし。そんな偉い人が忘れ物なんて、おもろいな」

俺が言うと、彼女はひどくうれしそうな顔をした。かるたを本当に好きな人の笑顔だった。
いつまでもこんな笑顔をさせてやりたい、と俺は心底思った。

「このたびはぬさもとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」

もう一度声に出して言う。
お、意外と覚えやすい。七五調でリズムが良いからだろうか。

「よっしゃ、これで残り96首やで。余裕やな」
「何がやねん。先はむっちゃ長いやん」

彼女には笑われてしまったが、これから帰り道、電車に乗るたびに1首ずつ覚えるだけなら、俺にもできそうな気がしてきた。
そうだ。彼女が一緒なら、大丈夫だ。

「あきのたの」
「このたびは」
「ひとはいさ」
「めぐりあひて」
「ひともをし」
「はるすぎて」
「はなのいろは」

電車の中で札をめくりながら次々と読み上げていく。正確に言うとこれは決まり字ではないが、歌を覚えている最中の俺にはこれが精いっぱい。決まり字のような謎の言葉はとても頭に入らない。
それでも、「よう覚えたね。もう20枚やん」、と彼女が舌を巻くから、俺は嬉しくなって胸を張った。

「だから、これくらい余裕やって言ったやろ」
「でもここからが難しいねんで。これまで覚えた句と混ざってしまうし」

彼女は俺の手から札を受け取ると、何故か巾着の中に片づけ始めた。

「ほな、この辺でやめとこか」
「なんでやねん。全部覚えな、かるたはできひんのやろ」
「札をこの20枚だけに絞れば、とりあえずの勝負はできるし、それに…」

彼女は言いにくそうに少々口ごもった。

「耳の検査結果が先週出てん」
「そっか」

俺は何気なさを装った口調で言ったが、それでも自分の顔がこわばるのを感じた。

「どうやったん?」
「それが、なんともなかってん」
「え?」

駄目だ。俺の耳まで悪くなったらしい。今、何と言った?

「えーっと、ちゃうねん。やっぱり左耳の方はどうしようも無いねんて」

彼女は言い繕うように、早口でまくしたてた。

「遺伝によるもんなのか原因は分からへんかったし、分かったところでどうせ治されへんから、そのまま。ただ、右耳はどこもおかしくないねんて」
「せやけど、実際のところ聞こえにくいんやろ」
「それが、その…先週もう一回検査してな、ピーって鳴ったらボタンを押す、普通の聴力検査やねんけど、そしたら聴力が戻っててん」
「どういうことなん。中耳炎と、あとはなんとか難聴ってのしか治らへんって…」
「私のは心因性難聴なんやって。原因はストレスらしいんやけど」
「ストレス?」
「耳はちゃんと聞いているのに、頭の中が聞くのを拒否している状況らしいわ」

本当に、毎度毎度のことながら、彼女の話は難しすぎる。頭が拒否ってナニ??

「耳が音を受け取って、それを頭が音として理解した時に初めて『聞こえる』、という状況になるんやけど、私は頭の方が悪かったみたい」

眠らせて、頭が拒否しない状況を作った検査だと聴力に何ら問題が無かったそうだ。それは心因性難聴の特徴らしい。
しかも彼女の場合、その心因性難聴も知らぬうちに改善していた。

「これくらいの歳の女子には時々起こるんやって。でも検査で他の要因、例えば脳腫瘍とかそういうのを全部否定しないと判定できひんから、お医者さんも全部の結果が出るまでちゃんと説明してくれへんかったみたいで」
「…そうやったんや」

なんでもない。ちゃんと聞こえる。
その事実を前に、俺は思いっきり脱力してしまった。一方、彼女はすっかり恐縮しきっている。

「ごめんな。心配かけて。こんなにすぐ治るなら、何も言わんかったら良かったな」
「そんなことないで。俺、耳の事をこんなに考えたことなかったから。この前なんか、聴導犬の活動に小遣い寄付したで」
「あ、それは私もやった」

耳が不自由になることに対して、自分に何ができるか、と考えたら行きつく先は一緒だったようで、二人で声をそろえて笑った。笑っているうちに、俄然うれしさが込み上げてきた。

「それで、ストレスって何やったん?それが無くなったから治ったんやんな?」
「何やろ。はっきりとは自分でも分からへんねんけど」

前置きした上で彼女は言った。

「5年になって急に勉強が難しくなって、毎月のテストが不安やったことかな。結果をみんなに見られるから恥ずかしいやんか」

俺は吉本の芸人張りにずっこけた。

「ちょい待ち。そんなん、偏差値50台の俺ならともかく、あの点数のどこが恥ずかしいねん」
「だって、それが悪くなったら恥ずかしいやんか」

うう…賢い人の感覚はよく分からん。

「ほな、今は恥ずかしくなくなったんやな」
「恥ずかしいのは恥ずかしいままやけど」

彼女はぽりぽりと鼻の脇を掻いた。

「最近、塾に行くんは楽しい」

電車が大きく揺れ、俺は少々足元をもつれさせた。
どうして塾が楽しくなったのか。
その原因はすぐに分かったけど、俺も照れくさいから知らんふりをして、「ふうん、そうか」、とさらっと流す。
彼女も気恥ずかしいからそれ以上は触れたくないようで、急に巾着の紐などをいじくりだした。

「せやからな、かるたはもうええで。聞こえなくなるかもしれへんから、付き合ってくれてたんやろ。もう大丈夫やから」
「別に、それだけちゃうし」

俺は顔を膨らませた。
それなら何のためなのか、と聞き返されれば返事に窮するが、まぁ、いいじゃないか。かるたをやる理由なんて、好きだから、だけで十分なんだろ。

「覚えるって決めたんやから全部覚えたるわ」
「でも、この先もっと他に覚えなあかんことが増えてくるやろ。かるたなんて覚えている場合じゃ…」

彼女の不安はもっともだ。5年になってからの暗記量は4年と比較にならないほど増えた。この膨大な知識を6年の1月、受験の当日まで頭の端にとどめておくためには、余計な記憶などしている場合ではないのかもしれない。少し前までの俺なら、多分そう思っただろう。

でも、今は違う。

「ええねん。覚える」

俺は彼女の手から巾着を奪い取り、中の札を掴んだ。

「小学校の間に覚えられへんかったら、中学行ってからでも覚える。お前がS女子受かって、俺がN中行くなら、これからもずっと一緒にこの電車乗れるやろ」
「…」

俺の言葉に、返事は無かった。代わりに茹蛸かと見間違えるくらい、頬を赤く染める。

ああもう。だからさぁ、これは最初からの課題だけど、何かしゃべってくれないと、気まずくなるんだよっ!!

俺は少し高いところにある彼女の頭を、かるたの札ではたいてやった。

「あほやな、そこは『お前にN中なんて受かるんかい』、って突っ込むとこやで」

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