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南海電鉄小説コンテスト

そうして、僕らはラピートに乗る

下校の時刻が憂鬱だ。
見知らぬ小学生たちが和気あいあいと帰る中を、独りぼっちで通り過ぎる。
小学四年生の春に転入してきた幸太は、孤独というストレスに押しつぶされそうだった。
季節は初夏へと向かっている。
少し強めの太陽が、幸太のうなじを照りつけていた。
(お父さんが転勤族だからいけないんだ)
小学一年生の二学期、埼玉から秋田に転校したときもこんな気持ちだったっけ。

秋田はお父さんのふるさとで、いきなり訛りの強いばあちゃんの家に住むことになった。


幸太は「学校に行きたくない」と毎日泣いた。
古めかしい校舎が恐ろしかった。秋田弁を話すクラスメイトと先生が怖かった。
それらを言葉で伝えられるほど、幸太は大きくなかったのである。
ただただ「学校に行きたくない」と繰り返す幸太に、一歳の寧々をおんぶしたお母さんは「わがまま言わない」と取り合ってくれなかった。お父さんはいつでも仕事が忙しかった。
そんなある日、ばあちゃんが「こさけ(こっちにおいで)」と幸太を手招きしたのだ。
「ばば(ばあちゃん)がいいものけでけるからな(あげるからね)」
大きな風呂敷から顔を出したのは、ピカピカの真っ黒いランドセルだった。
「教科書も鉛筆もむた〜っと入るがらな(はいるから)。みぃんなと同じだべ?」
前の小学校は通学バッグが自由で、幸太はランドセルを持っていなかった。ばあちゃんは幸太が学校に行きたくない理由をランドセルがないからだと考えたようだった。
もちろん、それは全くの見当はずれで、しかも当時の幸太はばあちゃんの言葉がほぼ理解できなかったけれど、細い目を線にして顔をほころばすばあちゃんに幸太の心はほっこり温かくなった。
頭からお尻まですっぽり隠れた幸太とランドセルを眺め「めんけなぁ(可愛い)」とばあちゃんは笑った。
すると不思議なことに、これまで怖いと感じていた全てが急に優しく映るようになった。

(せめて、ばあちゃんがいたらな)
幸太はランドセルの肩ベルトを握り締める。
大好きだったばあちゃんは、去年、病気で亡くなった。
その時幸太を慰めてくれた親友の海斗と陸とも離れ離れになってしまった。

「そんなんあかんよー」「え〜、なんでぇ?」
聞き慣れない大阪弁が『お前はよそ者』と告げているようで幸太は耳を塞ぎたかった。

やっとマンションのドアに到着し、ふうっと、下駄箱から詰めていた息を吐く。
「ただいま」
ドアを開いた途端「ガガガガ」と、不快なミシン音が響いた。
(またやってる)
もう、この音にはうんざりだった。
ミシンは秋田に住み始めた頃から始まったお母さんの趣味である。少しでも手が空くと中毒みたいにお稽古バッグや給食袋なんかを作り続ける。
それが、まるで幸太をシャットアウトしているみたいで、ずっと気に入らなかった。
ばあちゃんが死んでからは治まっていたのに、大阪に越した途端、また狂ったように始まったのだ。

「にいにい!」
ドタドタと、寧々が足元に巻きついてくる。幸太は顔をしかめ「邪魔!」と、寧々を払い除けながらリビングへと向かった。
顔を上げたお母さんが「冷蔵庫の中におやつあるわよ」と短く言って、再びミシンに目を落とす。
胸の奥に重い枷がのしかかるのを振り切って、幸太は手を洗い、冷蔵庫の中を覗き込む。
「どさある……」
(しまった)と口をつぐんだ時には、すでに遅かった。
幸太の背中で大きなため息がそよぐ。
「秋田弁なんて喋ったら、学校でいじめられるわよ」
そして「幸太はおばあちゃんっ子だったものねぇ」と付け加え、苦虫を噛み潰したような顔でミシン針に糸を通す。

幸太は無言でテーブルに腰掛け、パサパサしたドーナツを牛乳で押し流していく。ばあちゃんのおはぎが食べたいと思った。
そんな中「にいにい。公園行こう」と寧々がじゃれつく。
空気読めよな。
「大阪は物騒だから、寧々ちゃんから目を離さないでね。お母さんは忙しいから二人仲良くね」
「え?!」
勝手に寧々を公園に連れて行くことが決まっている。
(忙しいって、ただの趣味じゃん)
そう、言えたらいいのに。
「お父さんは今週末もゴルフですって」
傍に置いたコーヒーカップを手にするお母さんは、一段と機嫌が悪そうだ。
「それにしても、幸太のランドセルも随分と年季が入ってきたわね」
今度は幸太のランドセルに不機嫌の矛先を向けている。慌てて立ち上がり、ランドセルを自分の部屋にしまおうとした時だった。
「この際、埼玉の頃の通学バッグに変えたら?」「!!」

カッと、頭に血が上った。
「バカっけ!!!」
物凄く不快な何かが幸太の体を駆け巡る。
唖然とするお母さんの目の前で、わざとランドセルの中身をばらまいてから、自分の部屋のドアを強く閉めた。
(家出してやる、家出してやる、家出してやる)
無我夢中で空っぽのランドセルに着替えを詰め、ばあちゃん手縫いのお財布に全財産と電車のICカードを突っ込んで、幸太はマンションを飛び出したのだった。

(秋田に帰るんだ)
なんとなく算段はついている。
近くの駅からなんば方面の電車に乗って、なんば駅で南海電鉄の特急ラピートに乗り換える。
ばあちゃんに買ってもらった乗り物図鑑に、特急ラピートの終点は関西空港と書いてあった。
青くピカピカ光る車体と、ロボットの頭みたいに尖った運転席がカッコよくて、何百回も読み返したから間違いない。
空港から秋田行きの飛行機に乗って、ばあちゃん家で一人暮らしをするんだ。
(大丈夫、僕はもう小4だ!……でも)
幸太の現実的な部分が(そんなにうまくいくかな)と呟く。
そのせいで足早だった幸太の足取りが随分とゆっくりになっていたことに、当の本人は気がついていなかった。その後ろを小さな尾行者がトコトコとついてきていたことにも。

「にいにい! おしっこ!」「は?」
振り向いた瞬間、幸太は青くなる。寧々は両足を内側にくねくねとさせ、体を小刻みに震わしていた。咄嗟に周囲を見渡すと駅の改札はもう目前。
「まだだぞ!」と叫んで寧々を抱き上げ、子供用ICカードで改札を抜けると、駅構内のトイレへ猛ダッシュする。男子トイレの個室に座らせた途端「シャー」と音がした。
ふう、と安堵のため息。
「危なかったねぇ」と寧々がのんびり言うので(お前が言うな)と心の中で突っ込んで 「だらしないなぁ」と幸太はお腹からはみ出た寧々のシャツをしまってやる。
全く手のかかる奴と思ったところで「あ!」と気がついた。
厄介者の寧々を連れてきてしまった。
「にいにい、電車乗るの?」
無邪気に笑う寧々に、幸太はがっくりと肩を落としたのだった。

乗り換えなんて簡単だと思っていた。 
しかし、なんば駅は入り組んでいて、寧々を連れて南海電鉄を探しながら細い路地を歩くのは難しい。
大人の半分にも満たない寧々は、すぐに濁流みたいな人ごみに飲み込まれそうになる。その度につないだ寧々の手を強く引き寄せなければならなかった。
当の寧々は、といえば、幸太に強く手を握られる度に「にいにい、こわいの? こわいのこわいの、飛んでけー」と呑気に言ったりする。
ムっとした幸太は、寧々が七回目の「こわいのこわいの」を口にしたとき「今度それ言ったら置いていくぞ」と、怒鳴りつけてやった。
大きな目を潤ませる寧々に「泣いても置いていくからなら」と睨むと、寧々は顔をぐしゃりとさせてうつむいた。
(ざまみろ)
お母さんがいなければ、寧々なんてこんなもんだ。
大人しくなった寧々に満足しながら、天まで昇りそうな長い長いエスカレーターを上ると、南海電鉄のなんば駅があった。
「こんなに広いんだ……」

ずらりと並ぶ自動改札。その先に見える沢山のホーム。
もちろん、大きな駅を見るのは初めてじゃない。でも、今はお母さんがいない。
自分だけの力で、正しい乗り場を見つけられるのか。
もし、間違えたら……
幸太の背筋にスっと冷たいものが走る。
(やっぱり、今日のところは帰ろうかな)

「にいにい、迷子〜?」
「そ、そんなわけないだろ」
 寧々の手前、幸太は平然を装って「ほら、いくぞ」と改札をくぐり抜けた。
(えっと、まずは、時刻表を確認して……)
お母さんがやっているように大きな電光掲示板を仰ぎ見る。が、何が何やらさっぱりわからない。
不安と心細さに、幸太は自然と寧々の手を握りしめていた。
「にいにい、こわ」
言いかけた寧々は慌てて口をタコみたいにつぐんで、話題を変えた。
「にいにい、すごいのいるよ!!」
「なんだよ、今忙しい」と言いかけた幸太も「あ!」と声を上げ、生唾を飲んだ。
「本物のラピートだ」
初めて乗り物図鑑で見たとき以上の、大きな興奮が幸太の全身を駆け巡る。
「かっけぇ」
ピカピカだった。
青でもなく、紺でもなく、絶妙な深い色合い。
先の尖った運転席とギラギラでメタリックで重厚感溢れる車体は、戦隊モノのロボットみたいだ。
変形できそう、いや、絶対変形する! 悪と戦える!
円い窓もかっけぇ!!

気持ちがはやり、駆け出そうとした幸太の足に「にいにい、疲れた」と寧々が巻き付いた。
「もう! 邪魔虫!」

妹なんて邪魔なだけだ。
寧々が生まれてから、お母さんの目に幸太は映らなくなった。
(お母さんが僕より寧々を好きだから)
だからおばあちゃんっ子になるしかなかった。なのにお母さんは「おばあちゃんっ子だものね」とまるで「悪い子」みたいな言い方で幸太を批難する。
「ちゃんと歩かないなら置いてくからな」
寧々を引き剥がした幸太は憧れのラピートへと歩き出した。その足がピタリと止まる。
ラピートの前には改札があり、制服のお姉さんが立っていたのだ。
幸太の心臓がさっきとは違う高鳴りを始めた。
あの改札を抜けるには、特別な乗車券がいるのだろうか?
お姉さんに尋ねる?
でも、僕が家出だと気づいて警察に通報するかもしれない。
「お母さんは?」と聞かれたら、どうやってごまかそう。
その幸太の肩を後ろから誰かが叩いた。
「ひゃっ」と、思わず飛び上がると「あっはっは!」と誰かが笑う。
振り向くと、ヒョウ柄のパーカーに赤いミニスカート姿の、ド派手で目の細いお姉さんが立っていた。
「どうしたん? 困り事?」
「え、あの」
うろたえる幸太をお姉さんの細い目が捉え「もしかして、あんたら」と口を開いた。

(家出がバレた!)
体をこわばらせた瞬間、意外な言葉が頭上から落ちてきた。
「イオン行きたいんとちゃう? 和歌山大学前駅の」
「へ?」
本気でズッコケそうになって、なんとか足を踏ん張る。
「にいにい、イオンだって!」
寧々は、秋田の大型ショッピングセンターを思い浮かべたらしく「イオンでね、あいしゅ食べるの」と、ニコニコする。
ぽかんとなる幸太をよそに「せやろ」とドヤ顔のお姉さんが、上機嫌に寧々の頭を撫でた。
「なら、特急サザンやで。特急ゆーても自由席は特急料金かからんよ」
寧々をヨイショと抱っこしたお姉さんは「え、あの」とタジタジの幸太の手を引っ張り、つかつかと進んでいく。
銀色の車体の特急サザンは、少しだけ秋田の奥羽本線に似ていた。その身近な風貌に幸太は安堵する。
「この車両でええよ。イオンに行くならこれあげる。車見ながらカフェできる特別なチケットやで」
お姉さんは幸太の手のひらに二枚のチケットを握らせ二人をドアに押し込むと、ぎこちないウィンクを残して、さっさといなくなってしまった。

なんだろうと、チケットを眺めた幸太の後ろで扉がプシューと閉まる。
「あ!」
電車は走り出していた。
「にいにい。イオン楽しみだね」
寧々はウキウキとドアの窓から外を見つめている。
もらったチケットには『お好きなドリンクとデザートをプレゼント』と書いてあった。
訳のわからないうちに、幸太はあの細目のお姉さんに行き先を変えられてしまったのである。
(今日のところはイオンにするか)
仕方ないから。と、あえて残念そうに心で呟く。
別にホッとなどしていない。
本気になれば家出だってできるけど、今は寧々がいるから仕方ないんだ。
(……あのお姉さんのウィンク、両目つぶってたな)
不器用すぎるウィンクとつないだ手の温もりが蘇り、幸太は頭をかいた。
「お兄ちゃん、こっち、こっち」
ふいに、腕を捕まれ振り向いた幸太はギョッとして「なま」と叫んだ後「はげ」の部分をかろうじて飲み込んだ。
真っ青なアイシャドウと真っ赤な口紅。そして紫色の髪をしたおばさん、いや、おばあちゃんが、幸太の寄りかかっていた手すりの隙間から顔を覗かせていたのだ。
「なま? ほら、妹ちゃん連れてこっちおいで。おばちゃんの席空けたるわ」
厚化粧のおばあちゃんは隣に置いていた大きな荷物を掲げ立ち上がる。
「なにぼさっとしてるん。はよ座りぃ」「でも」
化粧してるけど、紫色の髪だけど、しわしわ加減からしてお年寄りだった。
秋田の電車で幸太が席を譲ったおばあちゃんと同じくらい。死んだばあちゃんより年上に見えるおばあちゃん。そんな人に、席を譲ってもらっていいのだろうか。 
幸太が躊躇している間に、寧々はちゃっかり着席している。疲れていた幸太は「ありがとうございます」と頭を下げてランドセルをお腹に回し寧々の隣に座った。

「妹ちゃんの面倒見て、お兄ちゃんえらいなぁ」
クレヨンを塗りたくったみたいな顔のおばあちゃんがくしゃっと笑った。その笑顔がばあちゃんと重なり、幸太は「ちゃんと座れよな」と、ついお兄ちゃんぶって寧々の座る位置を直したりした。
「賢いなぁ。どこ行くん?」
「イオン!」
寧々が叫ぶと「ほな、和歌山大学前駅で降りるんやで。和歌山大学前駅な」と、おばあちゃんは何度も何度も念を押したのだった。
特急サザンが次の駅に到着し「はい、あめちゃん」と紫髪のおばあちゃんは寧々と幸太に一つずつアメ玉を握らせ、降りていった。
幸太の手にはフルーツのど飴。寧々の手にはいちごみるく味のアメが乗っている。
「寧々は風邪気味だから、こののど飴と交換してやるよ」
「でも、寧々」
口ごたえする前に「な!」と凄むと、寧々は泣きそうな顔でいちごみるく味のアメを差し出し、幸太はすかさずそれを口に入れた。
あ。という顔の後、口を歪ませた寧々はそれでも泣かなかった。ただただ哀しそうにのど飴のパッケージを開いてゆっくりと口腔内へ押し込んでいる。
その仕草に幸太の胸がちくりと痛んだけれど、幸太は素知らぬ振りで窓の外を眺めた。

電車が和歌山大学前駅に停車したのは、茜色の空にほんのりと闇が混じり始めた頃である。
乗り過ごすまいと全身に力を込めていた幸太は、やっと駅名が出て安堵する。
「おい、起きろ」
幸太とは正反対に、のど飴を舐め終えてからずっと後ろへ前へ船を漕ぎ続ける寧々。
「もう!」
仕方なく幸太はランドセルをお腹に背負ったまま、寧々をおぶってドアをすり抜けたのだった。

イオンは駅直結で、通路に沿って歩けば迷わずに行けそうだった。
薄暗い夕焼けの下、遠くに山が見えた。
(なんとなく秋田に似ているな)
そう心の中で呟くと、なんとなく、心細さも遠のく気がした。
和歌山大学前駅は、幸太が思っていたよりもずっと遠かった。よく考えてみれば和歌山って、大阪の隣の県だもんな。と、一人頷く。
本来ならすぐにでも引き返すべきだし、内心そうしたくてウズウズもしている。しかし、それだけは絶対に嫌だと、幸太は踏ん張っていた。
これはお母さんへの反抗だから。
だから、カフェに行ってからじゃないと帰らないと決めた。
幸太なりのプライドと意地だった。
(でも怒られるのも嫌だから、急ごう) 
重たい寧々を背負い、エレベーターを上りながらそんなことも思う。

自分の汗と寧々の汗が混じり合い、背中がじっとり濡れて気持ち悪い。
そして、重たい。小さいくせに寧々は重すぎる。
(頑張れ)
もうすぐドリンクとデザートが待っている。
ドリンクはコーラで、デザートはアイスかチョコレートケーキかな。ファミレスのメニューを想像しながら考える。
お姉さんは車を見ながらと言っていたから、店内が車のおもちゃで飾られているかもしれない。
(僕だって頑張ってるんだ。それくらいのご褒美はいいよね)
汗だくになりながら、そう思った。

カフェはすぐに見つかった。けれども寧々をおぶった幸太は、カフェの前を通り過ぎたのだった。
エスカレーター近くの休憩用ベンチに寧々を下ろし隣に座ると、まるで地面に向かって引っ張られるみたいに幸太の体はずしりと重かった。
しびれた腕をゆっくり動かし、お姉さんからもらったチケットを取り出す。あやうく涙が出そうになってズボンのポケットにねじ込んだ。
「あんなとこ、入れるわけないじゃんか」
チラリと見ただけでわかることだった。
カフェの中に外国の高級車が展示されていた。入口には黒いスーツをピシッと着こなしたお姉さんが、置物みたいに姿勢よく立っていた。
おまけに、マダムとか紳士とか呼ばれていそうな、いかにも金持ちっぽい中年のカップルがふかふかのソファに座り、見たこともない高級デザートをフォークでつついていた。
とてもランドセルの小学生が足を踏み入れられる雰囲気ではない。
幸太にできることといったら、カフェの前を素通りすることくらいだった。
「なんで僕ばっかり」
そう呟いたら、苦しくなった。

外はもう暗い。
酷く疲れた。
なのに、寧々を連れて帰らなければならない。
そして、お母さんに叱られるんだ。
「なんで僕ばっかり」
宙を仰いだらトイレのマークが見えた。
幸太の下腹部がもぞもぞと反応する。
そういえば、ずっとトイレに行ってなかった。

「寧々、寧々」
「う〜ん」
(寧々を起こしているうちに漏れちゃう)
「にいにい、トイレに行ってくるから、ここで待ってろよ」
わかったのかわかっていないのか、寧々は目を閉じたまま、夢うつつにこくりと頷いた。
幸太はぶるっと身震いをしながら、小走りにトイレへ向かったのだった。

幸太のおしっこは細い滝のようにとめどなく流れ、永遠に終わらない気がした。
じょぼじょぼと流れる小さな滝の音を、幸太はぼんやり聴き続けた。
ズボンのジッパーを上げ、手を洗い、ふと顔を上げると、鏡の中に酷く不機嫌そうな小学生が映っていた。
無理もない。
これからのことを考えれば、とても笑顔ではいられない。
寧々はちゃんと起きるだろうか。
疲れたと甘えてくるだろな。
おんぶ。と言うんだろうな。
そんでもって一生懸命寧々を連れ帰っても、お母さんは僕を叱るんだろうな。
僕だけを。
「……」

トイレを出て、右に折れれば寧々のいるベンチがある……。
幸太はランドセルの肩ベルトを握り締め、左方向へスタスタと歩いていった。
自分の足音だけを聞きながら、駅に続く連絡通路を進んでいく。
空は薄暗く夜の匂いがした。濃い影に覆われた山に向かって「ぐぁあ」とカラスが狂ったように鳴いていた。
耳の奥がジンジンと熱かった。
やがて駅が見えてくる。

寧々は起きただろうか。
(起きると、あいつおしっこに行きたくなるんだよな)
にいにい、おしっこ。って。その時、僕がいなかったら……

ハッと、我に返る。
突如、脳内の電光掲示板に『行先 寧々』の文字が煌々と灯った気がした。
弾かれたようにくるりと踵を返した幸太は特急サザン、いや、ラピートの速さで全力疾走した。

幸太は瞬足だった。
それにわき目もふらず走った。
徒競走だったら間違いなくぶっちぎりの一等賞だった。
それくらい速かった。
だから寧々を残した時間は長くても10分くらいだ。
それなのに。

「なんでだよ! 待ってろって言ったのに!!」
また走り出す。
周囲の人々が振り向くのも構わずに「寧々〜!」と大声で叫んだ。
全ての階を走り回った。
それなのに。
いない。

息をぜいぜい吐いて脇腹を抑え、幸太は青ざめていた。
もう一度、最初から探そう。
エスカレーターがスローモーションのように動いていく。そのゆったりとした流れの中でお母さんの言葉が鮮やかに蘇る。

「大阪は物騒だから、寧々ちゃんから目を離さないでね」

(まさか)
頭がヒートしてぐわんぐわんと音を震わせていた。
エスカレーターの硬いステップでさえ、ふわふわと宙に浮いているような、おぼろげで実体のないもののようになっていく。
「にいにい〜」
そんな状態だったから、もわんとした頭に何度も響く寧々の「にいにい〜」が本物だと気づくには、随分と時間がかかった。
「寧々!!」
ヒョウ柄のパーカーを着た細目の女性に抱きかかえられ、寧々は「お〜い」と朗らかに手を振っている。
急いでステップを駆け上った幸太のお腹に寧々が飛び込んでくる。
細くふわふわの寧々の髪の毛に触れた途端、幸太は「よかった」と、その場にへたりこんだのだった。

「寧々ちゃんな、目ぇつぶったまま『こわいのこわいの飛んでけー』言うて、ずっと待ってたんよ。でもさっきおしっこ我慢しきれんくなってん」
寧々はずっと起きて待ってたのか。
それなのに僕は。
「あたしも妹がおるからあんたの気持ちわかるわ。やたら甘えてくるくせに、喧嘩すればすぐ親にチクるやろ?親は妹の肩持つし。ムカついてよう意地悪したわ」
お姉さんが優しく諭すような声で「でもな」と言う。
幸太はギュッと目をつぶった。
胸に手を当てなくてもわかる。
僕は悪いお兄ちゃんだ。
「あんたは、いいお兄ちゃんやな」
「え」
見上げた幸太の丸い頭に、ふわりとお姉さんの温かい手が降りてきた。
「ちゃーんと戻ってきた」
ばあちゃんのランドセルをギュッと握り締め、うつむいた。
一生懸命我慢したのに、ぶわっと涙が勝手に出てきて、止まらない。
うわーんと、泣きじゃくる幸太に目を丸くした寧々も「にいに〜い」と共鳴するみたいに泣き出した。
しまいにはお姉さんまでもが「いい兄妹やね〜」と二人を抱き寄せ鼻を啜る始末。

それからお姉さんは幸太と寧々をベンチに座らせ、近くの自動販売機でコーラとりんごジュースを買ってくれた。
「お母さんに連絡しとくわ」
少し離れた場所でお姉さんが携帯電話を耳に当てるのを眺めながら、幸太は寧々のジュースの蓋を開け、自分のペットボトルも開けて、強い炭酸を喉元に押し込んだ。
シュワシュワの刺激が、頭をスッキリさせる。
しばらくしてお姉さんが「お母さん」と、スマホを差し出した。固まる幸太に「大丈夫」と囁いて、お姉さんは不器用なウィンクをする。

『もしもし幸太? なんば駅で待ってるから気をつけて帰ってきなさい。それから……』

もう出ないと思っていた涙が少しだけにじみ、幸太はそれを腕で乱暴に拭って、ニンマリ笑うお姉さんにスマホを突き返したのだった。

「ほな、三人でなんばに帰ろか。特急ラピートで」
「え?!」
「途中の泉佐野駅から乗れるんよ、ラピートちゃん。そこで乗り換えよ」
お姉さんのウィンクは、やっぱり不気味だ。
寧々を真ん中に挟んで手をつなぎ、駅へと続く長い連絡通路をゆったりと歩いた。
幸太は秋田に行くつもりだったことやばあちゃんのこと、お母さんのミシンのことを話した。
お姉さんは「関空から秋田便って出てるんかな?」と首を傾げ「おばあちゃん、ええ人やね」としみじみし「たぶん、お母さんもいろいろあったんよ」と苦笑した。
大げさなリアクションのお姉さんが、ばあちゃんと重なって見えたのは、お姉さんの目がばあちゃんと同じくらい細いせいかもしれない。

お姉さんは和歌山大学の学生で、この近くのアパートに住んでいるのだと言った。
なんばの彼氏の家から帰る途中、挙動不審の幸太に出会い、尾行していたという。
「いざとなったらあたしんちに泊めよう思てな」
「じゃあなんば駅まで戻ると、帰るの大変じゃないですか?」
「彼氏んとこ行くから大丈夫。で、お願いがひとつあんねんけど」
「お願い?」
「あのな、あたしがあげたチケット、返してくれへん?」
健康的な肌色のお姉さんの頬が、てへっと恥ずかしそうに赤らむ。
「ほんまは今日、あのチケットでデートする予定やってん。けど大喧嘩して……。ほんであんたら見てたら、仲直りでもしようかなぁ、て。それでな、えっとお」
幸太はズボンのポケットから丸まったチケットを取り出す。
「ごめんなさい。ぐしゃぐしゃで」
「こんなん、引っ張れば元に戻るわ。ありがとう」と、お姉さんは大切そうに胸に抱いた。

和歌山大学前駅が見えてきた。
「ちょっと待っててな」とお姉さんは言い、駅の小さな窓口に思いっきり顔を近づけて「すいません、特急ラピートに乗ってなんばに行きたいんですけど」と、駅員さんに尋ね始めた。

特急ラピート。
あのピカピカとメタリックな外見の内側は一体どんなだろうか。

お姉さんがOKサインを出しながら笑顔で戻ってきた。
幸太の胸が高鳴り、ギュッと寧々の手のひらを握る。
「にいにい、こわいのこわいの……あ」
言いかけて口をつぐんだ寧々の言葉を受け継いで幸太は叫ぶ。
「こわいのこわいの、飛んでけ〜」
お姉さんと一緒に、寧々をビヨンと持ち上げると、ぶらんと浮いた寧々が奇声を上げた。

幸太の耳に、電話越しのお母さんの声が蘇る。
『お母さんは寧々も幸太も大好きよ』

結局、何かが解決したわけじゃない。
というより、何一つ変わっていない。
でも。
 
きゃっきゃと笑う寧々とあっはっはと豪快に笑うド派手なお姉さん。
周辺を歩く人々。
なまはげみたいなおばあちゃん。
耳に聞こえてくる関西弁も。

全ての景色が、さっきまでとは違って優しい色に映る。

(大阪も秋田と変わらへん)
心の中でお姉さんの関西弁を真似て、一人赤面する。
ばあちゃんのランドセルの肩ベルトをそっと撫でた幸太は(ここは和歌山だけど)と付け足し笑った。(了)

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