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南海電鉄小説コンテスト

iが、多すぎる。

トンカツの話

僕はトンカツが好きだった。だから一瞬、トンカツがどうしたのかな、と思ったものだった。
「ニンカツ?」
「うん、妊活。妊娠活動。しょーちゃんも子ども、ほしいやろ?」
確かに、僕は子どもが嫌いではない。むしろ、見掛けたら笑いかけたくなるタイプで、そんな僕のことを佳子は観察していて、知っていたのかもしれない。
サクサクの衣をまとったトンカツ。そんな魅惑的なものを頭から振り払い、落ち着いて考えてみる。


僕とカコ

佳子と結婚してから、もうすぐ1年になる。
高校時代の同窓会で、僕たちは再会した。
高校1年生のときに同じクラスだった僕らは、名前の順に座ると席が隣だった。試験期間は名前順に並び直す高校だったので、僕たちは数ヶ月おきに隣同士になった。
試験前の慌ただしい中、今更詰め込んでも無駄だと開き直った佳子は、僕によくちょっかいを出してきた。思い切りのいいところが佳子にはある。
さて、なぜ話し相手に僕が選ばれたのかというと、それはただ、他の誰も相手にしないからだった。僕が試験勉強を済ませて余裕かというと、もちろんそうではないし、更に、佳子のように潔いタイプではない。しかし長いものに巻かれるというか、とりあえず巻いてくるものには巻かれるタイプだったので、佳子にひたすら巻かれていたというわけだ。
「ねえねえ」
佳子はその日も、数学のテスト前にシャープペンシルでつついてきた。
「虚数って知ってる?」
「知らんなあ」
「2年で習うらしいんやけど、二乗したらマイナスになる数なんやって。なんやそれって感じやんなあ」
今ほかに考えることがあるだろう……という台詞は無駄だから言うだけ損だ。僕はいつも聞き役だった。
佳子は数学が好きなようだった。2年生からの文理コース選択でも、佳子は予想通り理系のクラスに進んでいった。
完全な文系脳だった僕は、迷うことなく文系コースを選び、佳子とはもう隣り合うこともなくなった。
時は流れ、数年後、成人式で再会。長く、いつもポニーテールにしていた髪をばっさり切ったことにも驚いたが、佳子が文学部に進学していたことの方が僕をびっくりさせた。
「理系ちゃうかったん?」
「話せば長なるねん」
実際、物理がどうしても克服できず、入試科目の制約から、文系に転換したとのことだった。全く長くならない話ではあったが、それを口実に二人で飲みに行ったことがきっかけで今に至るので、口から出任せに感謝しかない。

佳子はきっと、聞いてくれる誰かがほしかったのだ。
一生の話し相手になると決めたのは、更にその5年後。
長いものに巻かれる僕が、バラの花束を用意してサプライズのプロポーズ……をするわけもなく、坦々と毎日が過ぎていたときだった。
二人でテレビを見ていたら、結婚情報誌のCMが流れた。僕は確かスマホを触っていて、佳子がそのCMを真剣に見ていることに気付かなかった。
「なあなあしょーちゃん」
「ん?」
「そういえば、どうする?結婚する?結婚せーへん?どっち?」
二択しかなければ、答えは決まっている。
「する」
「ほな、式場の見学、予約しとくわ」
今ほかに考えることがあるだろう……と、思った僕は、その通りに伝えた。高校生のときとは違うのだ。
「その前に、言うことあるやろ?」
お互いの実家にいつ挨拶に行く?とか、いつ入籍する?とか、いろいろ言うことあるやろ。というか、僕もちゃんとしたプロポーズの言葉を言わなければならないんだけど……
「せやな。言うん忘れてたわ。ありがとうって」
想定外。
「……こちらこそ、ありがとう」


アイが、多すぎる。

佳子は、脳と口が直結している人間だった。
妊活一回目のチャレンジが上手くいかなかったとわかったのも、佳子が「毎月のムーンさん、来はったわあ」と、あっけらかんと言ったからだった。
ムーンさんというのは佳子が付けた愛称で、いわずもがな月経のことである。
最近まで何も考えていなかった僕だったが、妊活を意識し始めてからは「子どもがいる未来」というものを想像するようになっていた。
時に、僕はそれを口に出していた。「子どもの名前は何にしよか、もし男の子やったら……」という風に。それを聞いた佳子は、びっくりしたように目を丸くしたけれど、すぐにいつもの調子で「そうやなあ……考えとくわ」と答えた。
だから、鈍感な僕は気付かなかったんだ。佳子が、秘密を抱えていることに。

脳と口が直結していると思い込んでいるもんだから、佳子に言い出せないことがあるとは、思いも寄らなかった。
どうやら佳子は、婦人系の病気にかかりやすい家系であることを気にしているらしい。
それを知ったのは、めでたいでんしゃで加太に向かっているときだった。
3歳くらいの男の子が、お母さんと一緒に電車に乗り込んできた。たまたま向かいのシートに座った親子は、魚型の吊り輪を見て楽しんでいたが、そのうちに男の子がこちらに目線を投げ掛けてきたので、僕は自然と微笑んでいた。
その様子を見ていた佳子が、「ごめんなあ」と口を開いたのである。
めでたい電車に初めて乗る僕は、男の子と同様はしゃいでいたが、急に冷たい水を掛けられたように目が覚めた。めでたい気分だった自分の能天気さに、はたと気が付く。
「子どもができない未来」を考えていなかった僕は、ずるかったのではないか。
僕が持たなかった分の不安という荷物を、佳子は1人で背負っていたのではないか。
その荷物を半分、分けてほしかった。
「大丈夫やよ」
「ほんまかなあ」
確かに、無責任な発言だった。そもそも「大丈夫」とはどういう状態を指すのか?そのうち子どもができるよ、という「大丈夫」なのか。子どもができなくても「大丈夫」なのか。自分でもわからないんだから、佳子に伝わるわけがない。
しかしそれが、僕の掛けられる全ての言葉だった。その一言で話はなんとなく終わりになって、結局加太に着くまで何も話さなかった。海に近付いていく景色を、窓越しにただ眺めていた。

友ヶ島に渡るフェリーは混雑していた。整理券をもらったあと、乗船まで1時間の空き時間ができた。佳子が、近くにある神社に行きたいと言ったので、断る理由もない僕はついていった。
淡嶋神社という神社だった。雛人形やタヌキの信楽焼、招き猫など、境内には様々な種類の人形が置いてあった。不気味な迫力があり、肌寒さを感じるほどに怯んでいた。
佳子はそんな僕の手を引き、「女性の病気と子授けに効く神様やから、さ、拝んで」と指示を出した。
そんな、神様を薬みたいに言うのはどうなんよ、と思ったけれど、先程の話も頭をよぎり、力を込めて両手を合わせた。モヤモヤを押し固めるように。必死な僕を見た佳子は、神様の前だと言うのに「急にどうしたん」と大きく笑った。
「大丈夫って言うたやんか」
「大丈夫やよ」
何の根拠もないのに。
「せやな、大丈夫や」
またしても無責任な発言だったが、佳子は急に腑に落ちた顔をして、やっと手を合わせた。
「しょーちゃんが大丈夫って言ったら、なんか、大丈夫な気ぃしてくるわ」
申し訳ない気持ちに拍車が掛かる。
「ありがちな台詞やん」
自分で覆すなんて、どうかしてる。頼りない男だけど、嘘はつきたくない一心だった。
佳子は閉じていた目を開けた。罵声の1つや2つ飛んでくるだろうかと構えたが、佳子は予想に反し、今度はニィと笑った。
「ほな、絵馬書いてくれへんかな。しょーちゃんの力、試してみよら」

絵馬なんて書くのは初めてだった。
「ビギナーズラック、あるかもしれへんな」という佳子の言葉に背中を押され、僕は絵馬いっぱいに願い事を書いた。子宝についてだけを書くのは気恥ずかしくて、ごまかすように、思い付く限りたくさん書く。
「仕事が上手く行ってほしい」、「新しいテレビがほしい」。
「トンカツが食べたい」と書いてから、ニンカツを思い出して、なんだか一人で気まずくなって、その横に「焼肉が食べたい」と書き足す。
「から揚げも食べたい」、「ラーメンも食べたい」。
「ちょっと、多すぎへん?」
佳子の声にびっくりし、他の参拝客もこちらを見る。
「多すぎたら、あかんのかな」
「うーん」
「加太駅に貼ってあったポスターにも、『愛が、多すぎる。』って書いてあったで。多すぎるんが流行りやで」
煙に巻くように、いつもより早口でそう言った。まさか鵜呑みにするとは思わなかったが、佳子は突っ込むでもなく、目を丸くしているのでこちらが焦る。
「どうしたん?」
「アイって、あれ?虚数のこと?」
「は?」
キョスウってなんやったかな?フクソスウの友達かなんか?
今度は僕の目が丸くなる。
「愛って、愛やろ。ラブやんか、ラブ」
ラブだなんて、口に出す機会が生涯であるなんて。もう今後死ぬまで縁のなさそうな横文字だ。
「なんや、愛か。もしかしてヨウ素ちゃうわな、とかまで考えてしもたわ」
「ヨウソ?」
「元素記号がIやねん。虚数のiとか、ヨウ素が多すぎるわーって、南海っておもろい会社やなーって一瞬思ったんやけどな」
おもしろいのは佳子の思考回路である。数学と化学が好きなのはわかるが、頭が良いのか一周回ってアホなのか。
「おもろいなあ」
「せやろ?」
威張るような顔を作る佳子の頭を撫でる。
もう一度、神様への願い事を強く念じた。


僕たちのミライ

友ヶ島を散策してきたあと、佳子は鯛が食べたいと言い、港の近くのお店に入った。
「トンカツとかから揚げの方がええの?」と佳子が真面目な顔をして聞くものだから、「そうや、肉が食べたい!」と冗談で言ってみようかとも思ったが、どうせ決定権は僕にないんだから、無駄なことはやめておいた。
佳子は海鮮丼を堪能しながら、「あー、おいしい」と幸せそうな声を出した。
「もし、妊娠してたら、鯛も生の魚もあんまり食べやん方がいいっていうやん?」
「そうなんや?」
「せやねん。友ヶ島も足元不安定やったし、妊婦やったら危なかったかも。私まだ、授からんくて良かったわあ」
その台詞は額面通りに受け取ってもいいのか?僕は思わず構えた。妊活の話はなかなかナイーブだ。
どんな返事が正解か?瞬時に答えがでなかったし、考えたところで難しい問題だった。これがテストに出ていたら、僕は赤点かもしれない。文系とは言え、日本語が得意なわけじゃない。
僕はまた、めでたいでんしゃの中に戻ったように、何も話せなくなってしまった。
しかし、ここは電車ではない。このままでは、どこへも行けない。
佳子と、進んで行かなければならないのに。
僕は、半ば強引に、佳子の抱える荷物を半分奪う。自分の中の自分すら、追い付かないようなスピードで。
「なあ、一人で抱え込まんといてよ?そりゃあ、男は身ごもられへんから、佳子に頼ってしまうけど、できるだけ一緒に考えたいんや」

「なになになに、どーしたんしょーちゃん」
佳子がプッと吹き出すから、一切合切全部勘違いだったかな、とたじろいでしまう。
鯛がおいしいという話をしていたから、飛躍しすぎだっただろうか。
いや、佳子が100%本心で「授からなくて良かった」と言っているとは思えない。それなら、そこに潜む何%かの秘密に、僕は寄り添いたい。それは優しさじゃなくて、わがままなんだけど。
だから佳子には、伝わらないのかもしれない。佳子は相変わらず笑っている。
「しょーちゃんは、あれやな、愛が多すぎるわ。南海と一緒やわ」
「虚数?」
アイがラブを指しているとは気付いていたが、愛だ何だと言われると小っ恥ずかしく、はぐらかす。
「ハハ、虚数が多すぎるしょーちゃんて、どないやねん」
笑いのツボにはまったらしい。少し潤んだ目元を拭いながら、佳子は話し出した。僕のことなんてお構いなしに。高校生の頃のように。

「虚数って、何のためにあるんやろーって思って、調べたんよなあ。実際に存在せーへん数字なんて、気持ち悪って思って。でもなあ、複素数……って覚えてる?実数と虚数足したやつな。で、複素数平面ってあったやん、実数と虚数の座標で表すやつ。複素数平面で表した、例えば点Aにiを掛けるとな、90度回転すんねん。だからな、2個掛けたら180度やし、4個掛けたら元に戻ってくんねん。便利やろ?だからな、虚数はな、ええやつやねんで。ただなあ、iが多すぎたらなあ、しょーちゃん何回も回転せなあかんから目回ってしまうやろなあ」
「どないやねんな」
僕が呆れるのもあの頃と同じ。だけどここからは違う。今回は続きがあった。
「いろんなとこに行けて、でもたまにおうちに帰って来れたら、一番楽しいやんか。私は楽しい。iが多すぎるしょーちゃんと一緒で良かった」
「なんやそれ」
「アイの言葉やんか〜!」
引っ掛けたつもりなんだろうか。どんな反応をすればいいのか、これまた難しい問題だ。愛だ何だは苦手分野である。

「虚数の話、高1のときにもしょーちゃんにしたで。高2で習う前に」
「テスト前やろ?」
「そうそうテスト前。覚えてる?」
「ぼんやり。そのとき、何て返事してた?」
「よくわからんって」
「やろうな」
「で、習ったときに考えるって」
それはそれは、大変僕らしい答えだった。あの頃から、変わったところは数え切れないほどあるけれと、変わっていない部分もあるんだなあと、客観的にしみじみ思う。
「そのときが来たら考えたらええんよ」
それは、複素数もそれ以外も同じ。
「だからな、今はな、不安に感じんくていいし、悩むんやったら二人で考えよら。その方が、答え探しやしそうやんか」
テストじゃないんやから。僕らの机は高校生の頃とは違って、もう毎日隣同士やし、机を離す必要はないんやから。
「しょーちゃん、ほんまどうしたんよ、この前子どもの名前まで考えてたのに」
佳子が不思議がるから、どんどん恥ずかしくなってくる。「子どもがいる未来」しか考えていなかった頃の僕のことは忘れてほしい。
佳子から目を逸らして、海鮮丼に再び手をつけた。もりもり食べて、力をつけよう。たくさん書いた願い事を、全部叶えないといけないから。
そう、願い事が多すぎても全部叶えたらいいし、遅すぎても気付いた方がいい。愛が多すぎても、全部あげたらいいし、もしも願い事が上手く叶って、愛をあげる相手が増えたら、そのときは更に愛を増産したらいい。そのために今は、海鮮丼を無心に食べるのだ。
「なあ、未来はどうやろ」
「え?」
「子どもの名前の話やん。私がカコやから、ミライはどうやろかって。男の子でも女の子でもいけるで」
「子どもがいる未来」を考えたり、「子どもがいない未来」を考えたり、「子どもが未来である未来」を考えたり。
忙しい。それもこれも、iが多すぎるからだ。回転した最後には、ちゃんと落ち着くところに落ち着くことを祈ろう。
君と一緒で良かった。アイの言葉を君に。

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