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南海電鉄小説コンテスト

君にとどけ -Lonely whale-

白井香澄は南海線の車窓に流れる懐かしい景色を眺めながら、シートに身をあずけた。和歌山市行きの区急で、南へ向かう。

22歳になった香澄が数年ぶりに大阪を訪れたのは、中学の同窓会に出席するためだったが、会場のある堺駅では降りなかった。どうしても立ち寄りたい場所がもう一カ所あったのだ。

区急が泉佐野を出て各駅停車に替わると、香澄は少しばかり落ち着きを失くした。目的の駅に誰かが待っているわけでもないのに、胸が苦しくなるのが自分でも不思議だった。

気を落ち着かせるため、バッグの横にぶら下げた、小さなクジラのマスコットをそっと撫でた。14歳から大事にしている白と青のフェルトのクジラは、今でも愛らしい笑顔で香澄を見つめてくれる。

このクジラが香澄の宝物になったのは、中学2年の、あの放課後からだった。それまでは、叔母が作った手芸品の一つでしかなかった。

『白井さん、52ヘルツのクジラって、知ってる?』

ポツンと教室の席で、そのマスコットを見つめていた自分に話しかけて来た清田の声を、香澄は今でも忘れられない。

その3週間だけの教師との出会いは、香澄を今の香澄へと導く、大きなきっかけとなったのだ。

白井香澄が生まれ育った神奈川から、南大阪に住む叔母の家に預けられることになったのは、中学2年の春からだった。香澄の親の海外赴任先の治安の悪さを心配した叔母が、2人が帰国するまでの2年間、自分が香澄の面倒を見ると買って出てくれたのだ。

大阪府高石市の叔母の家から、南海線で堺駅近くにある私立中学に通う日々が始まった。

香澄はひどい人見知りであるうえに、変声期の少年のように掠れた声の持ち主だった。小学校時代、そのハスキーな声をからかわれ、香澄は更に、他人とのコミュニケーションを取らない少女になってしまっていた。

その香澄が、いきなり見知らぬ大阪で暮らすことになったのだ。叔母は早くなじめるように気を使ってくれたが、香澄は親しい友人も作らぬまま、いつもひっそりと1人の時間を過ごした。

編入したクラスは気さくな子が多く、苛められるようなことは無かったが、いつまでも打ち解けようとしない香澄を、皆次第に空気のように扱った。

だから香澄が本当は歌や音楽が好きで、叔母の家に帰ると小さなキーボードを自分で弾き、好きなアーティストや自作の曲を楽し気に歌う姿など、誰も想像もできなかっただろう。

香澄はそれでいいと思っていた。皆自分をそっとしておいてくれる。

中学を卒業するころには両親も赴任先から戻り、また神奈川で暮らせる予定だったし、それまでの間なら慣れない大阪でも我慢できる。ひとりで居ることは辛くなんかない。この掠れた声で喋って、妙な顔をされるくらいなら、居ないものとして扱ってくれた方が気が楽だ。そう自分に言い聞かせ、日々をやり過ごしていた。

大学3年生の清田誠が教育実習生として香澄の学校を訪れたのは、香澄が大阪に来て半年後の9月のことだった。朝礼で紹介された清田はひょろりとした色白で、印象の薄い青年だった。

実習生が来ることは珍しくはなく、社会科を受け持った清田が、初めて香澄のクラスの授業を担当した時も、香澄は特に何の感情も持たなかった。

清田の授業は、慣れないせいもあるのだろう、あまり要領を得ず、頭に入って来なかった。上がり症なのか、教壇ではいつも耳が真っ赤だった。

生徒はみな静かに清田の授業を聞いていたが、「赤耳キヨっち」というあだ名が付くのに時間はかからなかった。ある意味、あだ名が付けられるのは歓迎の印でもある。

この人もきっとすぐに教壇に慣れて、そのうち教師になるんだろうな。清田について香澄が思ったことは、たったそれだけだった。

清田が耳を赤くしながら実習をこなす間も、香澄は相変わらずクラスメイトと交わらず、授業で指名された時以外は、声を発することも無かった。

清田の授業で一度だけ当てられたが、「分かりません」と小さく答えてまた着席しただけだった。

清田の印象が香澄の中で大きく変わったのは、実習が始まって3週間目に入った、月曜日の放課後だった。クラスメイトが出て行った後の教室で、ゆっくりと帰り支度をしていた香澄に、彼は声を掛けて来たのだ。

「それ、クジラやんなぁ。手作り?」

ハッとして、こちらに歩いて来る清田を振り返り、その視線を辿ると、通学カバンの横にぶら下げていたマスコットが揺れていた。

「……はい。叔母が作ってくれました。手芸が趣味だから」
 少し緊張気味に返すと、清田はにっこり笑って香澄のすぐ横の席に腰かけた。

「優しい叔母ちゃんやね。いいなあ、めっちゃかわいい」
「……そうですか」

叔母は優しいし、このマスコットはお気に入りだが、あえて話題にする事ではないように思えた。なぜこの先生は、自分になんか話しかけるのだろう。

「クジラ、……好きなんですか?」

困惑しながら、そう問いかけてみた。なにか話さなくてはいけないような、そんな空気感があった。

「うん、海のそばで育ったから、海に住む生き物は子供のころから好きやった。ちっさい頃はみさき公園に何回もイルカショー見に行ったな。白井さん、見に行ったことある?」

自分の名前を覚えてくれていたことにも驚いたが、じっと見つめて来る子供のような瞳に、香澄はドキリとした。

「いえ……。叔母の家に住むようになって、まだ半年なので……」

「ああ、そっか」
清田は静かに言う。赤耳キヨっちのくせに、耳は少しも赤くない。

もういいかげん解放してくれないだろうか。香澄が密かに焦っていると、清田はクジラのマスコットをじっと見つめ、そして訊いて来た。

「ねえ、白井さん、52ヘルツのクジラって、知ってる?」、と。

「……52ヘルツ、ですか」
香澄はきょとんとしたあと、首を横に振った。 

「うん、世界で一番孤独なくじら」
「孤独な?」

香澄がじっと見つめると、清田は視線を逸らして、またカバンにぶら下がるマスコットを見つめた。

「アメリカの海洋研究所のチームがその声をたまたま録音して、一時期すごく話題になった。
クジラは普通10ヘルツから39ヘルツの周波数で鳴くねんけど、そのクジラの声は52ヘルツでね。やから愛称が“52”。
残念ながらその姿は観測されてへんから、種類も不明なんやけど、いろんな研究員が引き続き調査を続けてる」

「その声が珍しいからですか?」

「うん、それもあるけど……。そんな周波数の声で鳴いても、他のクジラには、その子の声が聞こえへんねん」

香澄は清田が言った孤独という言葉の意味を瞬時に理解し、ハッとした。

「誰にも聞こえない」
小さく繰り返すと、清田も小さく頷いた。

「クジラは、ある程度の群れを作って、鳴き声でコミュニケーションを取りながら生きていく。でも52は、たった一頭で広い海を泳ぎ続けるしかないねん。仲間を呼んでも、だれもその声に答えてくれへん」

どこまでも深く暗く広い海を、たった一人で延々と泳ぐ。香澄はその光景を想像した。

クジラに寂しいという感情があるのか分からないが、その一生を思うだけで気が遠くなりそうだった。

「かわいそう」
また小さく呟くと、清田もうんと頷いた。

「でも、なんやろな。僕その記事を読んだ時、可哀想っていうのもあったけど、すごく応援したい気持ちになってん。その子、もう何十年も、ずっとずっと諦めずに仲間を呼んでんねんて。大きい声で呼び続けとったらいつか仲間と出会える思うてるんやろうね。
呼ぶっていうより、歌い続けてるみたいにも聞こえるって」

香澄は不思議な気持ちで目の前の清田を見た。
 
52の話はもちろん心に響いて来たが、目の前に居るのがあの照れ屋の“赤耳キヨっち”だとは到底思えなかった。
なぜ彼は自分相手に、こんなに目を輝かせて饒舌に語るのだろう。

「あれ〜キヨっち、なんしてん。教室でナンパしたらあかんで!」

突然廊下から飛んできた声に、香澄も清田も肩を跳ね上がらせた。

振り返ると、クラスでも一番活発でよく喋る、北口翔子だった。忘れ物を取りに来たらしい。

気さくな子で、香澄は嫌いではなかったが、いつもクラスのグループの中心であり、ついつい彼女の横に行くと気後れしてしまう。

「そんなんやないって」清田は急に落ち着きを失くした。

「そんなんやない言いながら耳真っ赤やんか。かすみんはシャイやから、ちょっかい掛けたらあかんで。そうっとしといたらんと。なっ、せやろ?」

最後に香澄に同意を求めたくせに、そのまま返事も聞かず、忘れ物のバッグを手に取ると、北口翔子はさっさと廊下に消えてしまった。

突風が去ったあと清田を見ると、そこに居るのはいつもと同じ、耳を赤くしたキヨっちだった。

———そうだ、清田は先生になる勉強のためにここに来た人だ。
香澄はザラリとした感触を覚えた。

「私がいつも寂しそうにしてるから、その話をしたんですか? もっと頑張れって。努力しろって」

北口翔子の言葉を聞いたせいだろうか。香澄の口から思いがけず、冷ややかな言葉が出た。清田はハッと目を見開いたが、香澄自身が自分の言葉に愕然とした。清田を責めるつもりなど、少しも無かったのに。

「ちがう、そんなんやないって。ただフッと52思い出して、何となく話したくなって……」

清田の耳は更に赤くなり、そして香澄の気持ちも更に萎んで行った。
さっきまではあんなに言葉が通じていたのに、急に通じなくなってしまった気がした。
自分のせいだ。それも分かっていた。

「もう帰ります。さようなら」

小さく頭を下げ、香澄はカバンと泣きたい様な寂しさを抱えて廊下に向かった。

「声が……」

後ろから清田の声がした。

「聞けて良かった」

香澄は思わず振り返った。

「授業でほんのちょっと聞いた声がすごく印象的で。どんなふうに話すんかなって……。ほら、白井さん誰かと喋ってるのあんまり見たことないから。
やから、話ができてよかった。やっぱ思った通り、すごく優しくて魅力的な声やった」

香澄はいったい何をどう反応していいか分からず、そのまま黙って教室を飛び出した。気を付けてね、と清田が声を掛けてくれたが、振り返りもしなかった。

———この声が優しくて魅力的とか。……そんなことあるはずないのに。

その日の会話は香澄の脳裏から一時も離れずにいたが、その後清田が香澄のクラスを受け持つことは無かった。そして9月末日、学年集会で挨拶をした後、清田の教育実習は終了した。

ぽっかりと気持ちに穴を開けたまま、香澄はその日も堺から区急に乗った。
ドア付近に立ったまま、カバンにぶら下がったマスコットを見つめる。

一つ溜め息を吐き、そして顔を通路に向けた時だった。香澄は車両中程に、つり革につかまって外を見つめている清田を見つけたのだ。

ドクンと心臓が音を立てた。もう会うことは無いと思っていたのに。この南海線の沿線に住んでいるのだろうか。

高石の叔母の家に帰るには、羽衣駅で普通列車に乗り替える必要がある。けれども香澄はそのまま区急を降りなかった。自宅最寄り駅よりも南に向かうのは初めてで、少し不安もあったが、ここで彼を見失ってはいけないような、そんな気がした。

区急は岸和田を過ぎ、貝塚を過ぎた。そして各駅停車に替わる泉佐野駅を出たところでようやく、清田の視線がこちらに向けられた。
視線を逸らし損ねて、清田と目が合う。

「白井さん! 家こっちやった?」 

まっすぐこちらに走り寄りながら、清田が大きな声で訊いて来た。香澄は首を横に振る。

「降りそこなっちゃったんです。……先生はこっちなんですか?」
「うん、淡輪」
「たんのわ?」
「そう。海の近くで育った言うたろ? 大学は奈良やけど、教育実習の間だけ淡輪の実家から通っててん。……それより、折り返さんとね。次の羽倉崎で降りる?」
清田はソワソワと窓の外に目をやる。

「海が見たいです」
「え?」
「海を見たら、……帰ります」

香澄は必死の思いでそれだけ言うと、ドア横のポールを握り締めてうつむいた。清田も何も言わず、そのまま黙った。

香澄のカバンにぶら下げた、クジラのマスコットが揺れる。

電車はそのまま南下して行った。座席は空いていたが、二人ともドアの横に立ったまま、ただ黙って外を眺めた。

鳥取ノ荘《とっとりのしょう》を過ぎた辺りから流れる景色の隙間に、チラチラと海が見え始めた。そして箱作《はこつくり》に近づいた頃だった。いきなり目の前が開け、鮮やかな色彩が広がった。

「海!」

思わず香澄が声をあげた。清田が声を出して笑う。

「大概の子供はここでそれ言うねん」
「子供じゃないです」
「ごめん。ほんまにこっち方面は初めてやねんな。南海線は海のイメージやけど、意外と海が見える場所は多ないねん」
「そうなんですか」
清田の言う通り、海はすぐに木々や建物の間に見えなくなった。

「海、もう見れたな」
「先生の海を、まだ見てません」
香澄は清田を不機嫌そうに見上げる。

「じゃあ、……次の淡輪で降りよう。駅から少し歩くけど」
清田がまた、優しい目をして笑った。

2人は淡輪駅で降りた。
可愛らしい駅舎を出て、清田と一緒に住宅地の中をしばらく歩いて行くと、道のむこうに濃い色の海が見えて来た。香澄は思わず清田を急かし、走り出す。

「わぁ」
緩やかな石段を駆け下りると、黄色い夕陽を映した穏やかな海と、きれいな砂浜が目の前に広がった。9月末の平日のビーチには、二人の他に誰もいない。

「夕日がきれい」

「うん。天気のいい日は海がエメラルドで、白砂とのコントラストが綺麗やねんけど、僕はここで夕日を見るのが子供の頃から特に好きやった。みんな泳ぎ終わったら日の高いうちに帰っていくやろ? もうちょっとしたら、めっちゃきれいな夕陽が見れるのになあ、て」

「もったいないですよね」
「せやろ? あ、ここは通称ときめきビーチ言うねん。覚えといてな」
「ときめきビーチ?」
香澄が笑う。

「ちっさい頃は、ここでよう遊んだな」
清田は次第に熟れていく海と空を見つめ、目を細めた。

やはりここは清田の海なんだな、と香澄は思った。清田の話し方は教壇で聞いたのとは別人のようにゆったりとして滑らかで、こちらまで落ち着いて行く。

今なら何でも話せそうな気がした。

「最後にもう一度先生と話せて、よかったです。この前言ったこと、すごく後悔してたから。ごめんなさい。52の話、してくれて嬉しかったです」

香澄は素直にそう言い、小さく頭を下げた。そして再び清田と視線を合わせる。その目が潤んでるように見えて、香澄はドキリとした。

「謝ることなんかない。僕は昔から口下手で、人にちゃんと物事を伝えられへんかったから。教師には向いてないんやないかって、この3週間ずっと思ってた。
でも、一番の後悔は白井さんを傷つけたかもしれんって思った事で……。やから、もう一度ちゃんと話せて良かった。僕な、……あの時、ホンマに君と何か話してみたいなって思っただけやねん。……声が聞きたかったのもホンマやけど」

「この声、嫌いなんです。何度もからかわれたし。だから……」

「もっと自信持ったらええよ。ハスキーボイスの歌手だってたくさんいる」
歌という言葉に香澄は反応した。

「歌うのは好きです。でも、学校じゃ……」
「歌が好きなん?」
すくい上げる様に清田は言った。やや垂れ気味の目尻を更に下げて嬉しそうに笑う。

「良かった。歌が好きで。いっぱい歌ったらええよ。あの中学、歌唱コンクールにも力入れてるやろ?」
「そんなんじゃなくて、自分で……」
「ん?」
小さく首をかしげる清田の目を、香澄はじっと見つめた。

「自分で曲書いて、自分で弾き語りするのが好きなんです。まだ全然下手で、叔母にしか聴かせてないけど」

「それほんま? ええなあ。今僕ちょっと想像して鳥肌立った。その声で歌ったらめっちゃカッコイイと思う! それずっと続けてな。恥ずかしがってる場合とちゃうよ。ああ、なんか自分の事みたいにワクワクしてきた」

「先生の想像、飛びすぎてておかしいです」

清田の仕草に香澄は思わず笑う。人前でこんなに大きな声で笑ったのは久しぶりだった。自分が今まで何をいじけていたのか、ふっと忘れそうになった。

「このクジラのお陰で先生と話せて、よかった」
香澄はバッグの横のマスコットをそっと見つめたあと、海の向こうに目を向けた。
「52の話、すごく気持ちの中に残ってて。思い出すたびに何か切なくなるんです」

52ヘルツのクジラは、どんなに歌っても、呼んでも、誰にも届かない。52の孤独と、香澄の孤独は全く違った。

香澄の孤独は、香澄がつくりあげてしまったもののように思えた。

自分は声を出せばみんなに届く。清田は、その声が聞きたいと言ってくれた。それだけで、胸に温かいものが溢れて来る。

「52の声が、いつか他の仲間に届くといいな」

「うん、僕もそれ、いっつも思う。この海は、ひとりぼっちで泳ぐには広すぎるから」

二人が見つめる先で、夕日は稜線に溶けて行った。辺りは一気に暗くなり、幾分慌てた清田が「送っていくよ」と、香澄を駅に促した。「もうちょっと沈むの待っといてくれたらええのにな」と、夕日に文句も付け加えながら。

淡輪駅で、香澄と清田は互いのこれからを応援する言葉を掛け合い、そして別れた。 
まだ何か言わなければ。まだ何か伝えきれていないものがあるのに。そう思ったが、それが何なのか、何を伝えればいいのか、分からずじまいだった。

ただ、大切な出会いと、別れがあった。それだけを噛みしめながら、香澄はそのあとの中学生活を送った。


香澄が目に見えて変わり始めたのは、その冬の音楽の授業の一コマからだった。
自分自身が変ろうと意識して挑んだ歌唱テストで、香澄は自分が選んだ曲を、自分のすべてを出し切って歌い上げた。
 
香澄の本気の歌声を聴いた生徒も教師も、皆息を飲んだ。何処までも優しく、幅広い音域をしなやかに舞いながら心にしみて来るその声は、すぐさま皆を虜にした。

「なんでそんなうまいねん。ずるいわ」
今まで話したことも無い級友や、教師までもが香澄を囲み、しきりに称賛した。
 
香澄はその反応にとても驚き戸惑ったが、何か新しい扉を開くことができた感触を確かに感じた。

———自分の声は、聴く人の心にちゃんと届くのかもしれない。

中学を卒業した香澄は、叔母や友人たちと別れ、神奈川の実家に戻った。両親の了解を得て、とある小さな事務所のシンガーソングライター・オーディションを受けたのは、高校3年の春だった。高校卒業と同時に、香澄はその事務所で音楽活動を始める事となった。

類を見ない心地よい声と歌唱力、そして切ない詩とメロディが人々を魅了するのに時間はかからなかった。

天使の歌声と称され、「KASUMI」の音源は緩やかに若者の間に広まって行った。

『10月の頭に中学の同窓会すんねんけど、香澄、来れんかなあ。遠くてごめんやけど』

仲の良かった北口翔子の電話を受け、香澄は逆に声を掛けてくれたことに礼を言った。南大阪で過ごした2年間は香澄にとって特別なものだったから、断る理由などどこにもなかった。

〈次は、箱作〜。箱作に停まります〉

車内アナウンスを聞き、中学時代に想いを馳せていた香澄は顔をあげた。いつの間にか電車は鳥取ノ荘を出ていたのだ。座っていた座席の窓を振り返ると、黄昏に染められた海が広がっていた。

海だ。心の中であの日のように声をあげる。電車はすぐに箱作を過ぎ、そして目指す淡輪に停まった。

急ぐ必要などないのに、待っている人など居ないのに、香澄は走り出した。
あの海が、香澄をずっと呼んでいた。52が寂しげに歌い、清田がずっと見つめて来たあの海が。

あの日清田が教えてくれた、細い近道を香澄は走った。息を切らしながらあのビーチにたどり着く頃には、オレンジ色の太陽が空と雲を染め、海はまるで湖のように凪いで、あの日と同じ色を見せてくれた。

ヒンヤリとした緩い風のそよぐ浜辺に佇み、香澄は海を眺めた。ここにもう一度来たかったのだ。本当の自分が始まったのは、ここからのような気がしたから。

けれど、改めて一人で眺める夕刻の海の色は深くて、思いがけず寂しさが込み上げて来る。

『この海は、ひとりぼっちで泳ぐには広すぎるから』

あの日の清田の言葉が蘇る。あれは52の話なのに。いつだって52の話は、自分と切り離せずにいた。

52は今でもこの海で、誰かに声を届けたくて、歌っているのだろうか。

———私の声は、たくさんの人に届き始めたはずなのに、いま、まだ、こんなに寂しいのはなぜだろう。

「あれ? ……ねえ、もしかして、白井さん?」

不意に左側の建物の方から声を掛けられて、香澄はハッとした。

もう、その時点で分かっていた。この声、このおっとりした話し方は、聞き間違えることなど絶対にない。

「清田先生。……どうして?」

砂浜を走って来るのは、すっかり陽に焼けて、細身でありながらもカッチリとした体つきになった清田だった。

「白井さんこそなんで? 今は関東に住んでんねやろ? 叔母さんに会いに?」
「同窓会の知らせがあって……」
「ああ、そっか。みんな君に会いたいやろうしな」

今、清田と普通に会話をしている事実に頭が付いていけないまま、香澄はとにかく声を出した。話し続けなければ、全て消えてしまうのではないかと思った。

「先生はずっとここに? ここからどこかの学校に通ってるんですか」
「ああ、先生はやってないねん。やから先生って呼ぶのはやめてな。僕は今、あそこに見える、青少年海洋センターのスタッフやってる」

清田は、走ってきた方向にある赤茶色の建物を指さした。建物の一つは海の上にせり出している。

「カヌーやボートや、いろんな磯遊びの体験を通して、子供たちに海と触れ合う楽しさを教えてる。教壇で勉強教えるより、なんか自分らしい気がして」

「だから、そんなに真っ黒なんですね」
香澄の素直な言葉に清田は笑った。

「うん真っ黒やろ。知らん人やと思われんでよかった。白井さんは、あの頃も綺麗やったけど、もっと綺麗になった」

香澄は言葉に詰まって思わず黙った。清田がそんなことを言うなどとは、思ってもみなかった。

「ああ、なんか嬉しいなあ。君にまた会えるとか。何か、ずいぶん遠い人になった気がしてたから」

「そんな、……全然です」

「なんか、言うの恥ずかしいけど、僕ずっと君の歌、聴いててん。シンガーソングライターのKASUMIの歌、全部知ってる。どの詩も曲も全部好きで、毎日聴いてて……。お前ほんまに好きやなあって同僚に言われて。……でも、一番好きな曲は、やっぱりあの曲なんよ」

清田は香澄の方を向き直って言った。

「Lonely whale」

そしてまた恥ずかしそうに視線を海に逸らす。

「僕な、あの曲聴いて、泣いてもうた。なんか、……なんやろな、言葉で説明できへんけど」

「先生に届きましたか?」

香澄は、自分も言葉にならない想いを必死に言葉にした。清田の横顔は、あの頃よりも精悍で、大人で、下手な言葉でも受け止めてくれそうな気がした。

「先生に聴いてほしかったんです。私の歌を。私の気持ちを。もう会えないかもしれないけど、いつか届けばいいって」

清田はゆっくり視線を香澄に戻し、一度キュッと唇を引き締めたあと言った。

「うん。ちゃんと届いた。あの歌詞の52みたいに、いっぱい頑張って歌ったから。真っ先に届いた。ありがとうな」

不意に香澄の目から涙があふれ、視界がすべて夕日と同じ金色に滲んだ。

「また、会いに来てもいいですか?」

「え、……僕に?」

「この海に」

「ああ……」

はぐらかした香澄に、清田が声を出して笑った。

「ええよ。おいで。僕も、海も、君の52も、いつでもここで君を待ってるから」

声をあげて泣きそうになるのを必死で堪えて香澄は頷いた。

ふわりと、海から吹いて来た潮風に交じって、52ヘルツの歌が聞こえたような気がした。

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